焼山砦(富山県魚津市鹿熊) | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 ここは赤坂砦よりも知られていると思いますが、ネットには無いようなので初出が続きます。

  佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』(以下佐伯)によると、寺屋敷と呼ばれていて地元では寺跡とされてきた。山上の平坦面は71×43の広さを有し、間口底幅4mの堂々たる出入口を構える。

寺跡かもしれないが、南西下方は三本の堀切を組み合わせた防御施設がある。写真の頂部右(東)と裏(北)にも堀切、畝状竪堀があったようだが明確には確認できなかった(消滅?)。

 高岡徹(2012)『魚津戦国紀行』によると、大規模な土塁を備えた虎口などは、松倉城に派遣された上杉有力武将、具体的は河田長親や上条宜順などの地位にふさわしいものとし、平時における居住施設(山下屋敷)と推定している。

 

焼山砦眼前に松倉城の勇姿

あそこまで登ることを考えると政務にはここが便利にも思える。

しかし、離れすぎている感もある。

 

屈曲導線上(導線下は後掲)に威容を備えた出入口

 

うぃ

威容を放つ

左手(開口部の西)は櫓台状。

開口部前に空間を置く。

 

礎石か

 

開口部の西

櫓台状。

 

櫓台上

 

櫓台から開口部前空間(緑が邪魔)

 

櫓台南西下方は谷口からの尾根伝い襲撃を堀切群で遮断する(後掲)。

 

櫓台から郭内

東、主郭を見下ろす高所あり(後掲)。

 

郭内北西から開口部

開口部の東は小削平を置いて土塁が守る。

 

小削平から開口、櫓台

高さが揃っているようで、門の作事の基台ではないか。

 

土塁上から小削平、開口部

 

 

土塁天端

 

土塁は水溜りの先、高所際で切れる

ここも出入口か。

付近にカモシカ君がいて、大きな音をたてて移動。

 

越中のカモシカ君と信濃のカモシカ君の違いも興味がある

 

高地上は造作なし

 

高地から郭内

主郭を見下ろす高地を城郭として使用していない…。

 

高地東下方、高岡図堀2のあたり

さらに下方に佐伯図堀➁だが、作業路で消滅か。

 

両先生とも北斜面に畝状竪堀群をとられているが、これだろうか

松倉城には無いが、升形城とここにはある。

 

北東隅から郭内

写真左から土塁、開口。

 

 

開口前導線

 

開口前導線

降り、屈曲。

 

下方に水路のある平場

 

水路のある平場

 

その平場の高さで西進すると堀切構造

三本の堀切が組み合わさり、厳重に遮断する。

接近

うぃ

横堀ー堀切間は畝が仕切り、横堀は土橋が仕切る。

 

土橋の城内側

 

土橋城内側から俯瞰

横堀は竪堀に変化する。

畝は監視台か。

 

横堀折れ(屈曲構造ではなく等高線なり)部

横堀折れ部塁線から谷口斜面を監視

射撃可。

 

北西は逆折れし、竪堀となって降下

 

 

 

堀切

鋭い薬研。

 

堀切端

竪堀に変化。

畝上から俯瞰

 

 

 

竪堀

塁線が沿うような施設で、横堀と構想は同じか。

倒木の下方↓

 

下端

松倉城下谷口になり、この焼山砦が松倉城の外構えに該当しないだろうか。

 

下方から竪堀

 

下方から塁線越しに竪堀

 

 谷口側の塁線を持つ堀構造は、景勝期改修と私は考えます。

 主郭は、出入口が城のものとして大きすぎ、居館・政庁にしては松倉城から離れすぎている感があります。松倉城と一体となった運用には不便だと感じました。

 焼山砦は、景勝期に松倉城の外構えとして、寺院を谷口を守る防御拠点として改修した姿だと考えます。

 

 

 参考文献 

 佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房、p.17

  高岡徹(2012)『魚津戦国紀行』、魚津市教育委員会、pp.103-9