修士課程一年目の中間発表が済んだ(なかなかたいへんだった)ので、中陣砦につづいてネット初出砦シリーズを続けます。
ネット初出ってことは、あまり人が訪れないということで、それは遺構がつまらないか、辿りつき難いかが大きな理由だと思う。
他人にはつまらないかもしれないけれども、私にはかけがえのない遺構だったりもするわけで、また私が行ってない城って、どこだそれって所がほとんどで、なかなかそれが辿り着き難い…。
しかしそこは自分の目と心で観なけれ気が済まないわけで、このように修行を続けている。
そんな私の修行は、歴史研究としては文献に登場しなくて発掘調査もされていない城郭を研究資料として扱うことができるのか、ってところがまず箱掘りのように遮断しているが、それでも佛教大学の先生や院生の方々は貴重な時間を割いて私の話を聞いて下さり、どうにか研究として成り立つようにアドバイスを下さる。
こういったところが佛教大学の懐深く温かいところ。ありがたいことです。
赤坂砦
松倉城と角川を挟んで南東約1.2㎞に位置し、松倉城の支城とされている(知る人は少ない…)
北と北東の角川沿いからの取り付きは無理。
高岡徹(2012)『魚津戦国紀行』魚津市教育委員会(以下高岡)によれば、砦の名を大熊砦とし、山麓の大熊集落を本拠とした椎名氏家臣江波氏が主であった可能性を記している。
松倉城主椎名康胤の夫人は江波氏の娘(賀運慈慶)であり、康胤の嫡男が常泉寺三世住持松室文寿となっている。常泉寺は雲門寺と共に椎名氏の菩提寺であり、永禄12年の上杉政虎の攻撃と椎名氏の滅亡によって大熊を離れたという。
私の修行:大熊集落の神社脇から常泉寺跡を経由し、上り詰めればよさそうなものだが、大熊集落から常泉寺跡への道は途絶え、3度断念した。遠回りだが、稜線まで林道を歩いて(一度バイクで試みたが断念)行くことができれば行けるはず。4度目の挑戦(しつこい)で到達した。帰りは常泉寺跡へ降りて、大熊集落を目指した。途中、藪と崖に阻まれ、沢に降りざるをえなくなり(らんまるさんの「沢に降りてはいけない」という喚き声が聞こえた)危うく命を落としそうになったが、無事帰還できた。
大熊集落から赤坂砦
標高336.6m、大熊から比高130m。
林道を歩く
乗用車は無理。バイクも腕の立つ人以外は厳しいか(私のは排気量が850ccで車体が重いため断念)。
稜線まで大熊集落からの赤坂砦撮影地から24分
ここから左(北西)に稜線の尾根伝いに行けばいい。1.2分台の駐車スペースはある。
稜線尾根伝い
初冬、絶好なのだが、枝がピシパシ顔にあたり傷だらけになる。
林道から5分で常泉寺に関する経塚と推測する四基のマウントがある(高岡)。
林道から11分、赤坂砦に到達
堀切アの城内側壁面には石を張り付けていたようだ(高岡)
主郭内の削平は甘いが、2m程の切岸が全周し、シンプルだが防御は固い。これは見事。
帯郭は南西で一部欠けるが、ほぼ全周し、守りを強固にしている。南西欠損部も地形的な制約だが南東尾根からの敵兵の通行を妨げ、東側への進行へと誘導、主郭の張出B部からの横矢が掛かる。さらに段差や竪堀で速度を鈍らせている(佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』桂書房:以下佐伯)。
イは私が見る限り、移動不可とする竪堀というよりも通行障害を意図した段差としての施設ではないだろうか。Aを高岡は竪堀とするが、佐伯は明確な虎口としている。私も出入口に見えた。
帯郭北隅には土塁を設け、その南東に絶対に攻め登ってはこない角川への崖に向かって乱穴が2つある。北尾根にも竪堀・土橋構造がある。
佐伯は計画的な縄張・明確な虎口から、築城年代を16世紀後半と推定、上杉謙信あるいは織田勢との抗争の中で新たに築かれた松倉支城群の一つと推定している。
北西尾根には削った窪みが5ヶ所あるが、佐伯は簡易的な炭焼きとしている。
私は、主郭の削平が甘いことから、在地勢力江波氏の持城ではないのではないかと感じている。鋭い切岸が全周する堅固な普請には、情勢の緊迫と防御施設の完成を観る。切岸の鋭さは元亀天正期期の上杉普請の特徴であり、張出からの横矢掛けも佐伯の見解通り計画的な縄張構想が伺え、元亀以降の上杉勢による設計・普請に思える。切岸の高さが他の上杉普請に比して低いのは、配備された守備兵が重装備の長鑓部隊ではなく、持鑓が短かったためではないだろうか。また堀込出入口も椎名時代(永禄以前)の椎名被官による構築とするよりも、元亀以降の上杉勢による構築と考えられないだろうか。帯郭の段差普請は、通路となる堀底に段差を設ける天正期上杉の普請の同類型と捉えている。そういった観点から、この砦は、上杉接収後に上杉勢により、元亀、いや天正の謙信死後の緊迫化、松倉城防衛強化の一環として普請された砦に思えている。
高岡は山頂部の主郭の周囲を切岸と帯郭が巡る縄張りを、北山城や平の峰城などと共通であることから松倉城砦群の一つの型とし、切岸と帯郭による防備は単純なため、構築時期としては椎名氏時代を想定している。
私は切岸と帯郭による防備は完成された計画的な縄張ととらえており、また平の峰は、切岸形状、石の使用、郭と郭が堀込の出入口で結節する構造から、景勝期(天正期)上杉の普請と捉えている。
北山城は、高岡同著書p51では長尾小四郎(永禄5~7年に椎名養子・天正6年上杉離反)が置かれた可能性を述べており、そうであれば、これらは越後から派遣された上杉在番衆による普請の型と考えられないだろうか。
堀切ア
ア城内側壁面東部
アを東から
東の切岸
2から3mの鋭い切岸が全周する。高切岸ではないが、これが登れず、強力な防御普請が完成している。
アを郭内から
ア南西部
郭1内(南東部を南東から撮影)
不整地の様相。
南西切岸下帯郭
北東張出部
東帯郭に横矢を掛けることができる。
張出から帯郭南東に横矢
張出から帯郭北西に横矢
木が横切っているあたりに竪堀(段差)あり。
竪堀
というより私は天正期上杉の段差普請と観た。
北隅やや南東、絶対に攻め登ってはこない角川への崖に向かって乱穴が2つあるに乱穴2か所
越後中郡を彷彿。
郭1中ほど
西帯郭へ切岸が緩い箇所があり、あるいはここが帯郭と1との接続部か
郭1北西部
北隅切岸下に出入口A。
出入口がこちらにあるのは、砦への人の出入を松倉城に見せているのではないか。
松倉城
郭1北端から切岸下に虎口Aを監視
Aの東の帯郭の土塁あり。
素
斜から
A
土塁
A外導線
Aを下方から
切岸壁上郭1が監視
北尾根
竪堀状の抉り、土橋造作がある
左の緑が竪堀状の抉り
土橋造作
左が角川側で右が竪堀状の抉り。
角川側
北西尾根
簡易炭焼き穴が4ヶ所あり
こういうの
水尾城を望む
常泉寺へ
経塚と想定されるマウントのあるあたりと赤坂砦間の稜線から南西の降下
この平場ではない
水場がある
山道があり、辿り降る
ここが常泉寺跡
降下決意から約8分。
左の水は泉の跡で、右手奥に本堂跡か。
高台に寺跡記念碑があり、本堂跡のようだ
康胤嫡男が居た地か
南西下に付随する区画
高岡は、下の谷に降りる道があることから寺の入口にあたると推定し、この区画の中に塔頭が建っていたかもしれないと記し、遺構は戦国期の曹洞宗寺院跡であり、当時の山中寺院の構造を知るうえで貴重と記している。
※ここから谷に降り、沢伝いに大熊集落に至る経路は、私が通った2020.年12月時点では危険で困難でした。
両先生の研究の成果のお陰で、私も試練を満喫しました。
参考文献
高岡徹(2012)『魚津戦国紀行』、魚津市教育委員会、pp.111-22、p.51
佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房、p.47