大学立て込んでいるのですが、逃避してネット初出と思われる中陣砦を書きます。
天正10年(1582)5月、織田の大軍に攻めたてられている魚津城を救援しようと、景勝が越後から主力を率いて後詰に出張る。
景勝の後詰は、織田勢が陣城を構えていて手出しができないなか、信越国境を越えて森勢が春日山に迫る動きを見せる。景勝は、魚津籠城衆に開城を促し、松倉籠城兵と集合、26日に越後へと退却した。
魚津城は開城の和議がなったが、織田勢の方針が変わり、越中衆退去の後の6月3日、越後勢は後世に伝わる壮絶な討死を遂げる。
通説では景勝は天神山城に陣を据えたとされていますが、地元では、天神山に先陣、約1.9㎞後方(越後よりの)の台地上に本陣を置いたとする伝承があり、そこを中陣と呼びます。
中陣砦
標高170m、比高130m(数値は佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房を引用)
天神山城側下からは寄せ付けませんが、鉄塔を目印に台地上北西からから容易に行けると軽く考えていました。
鉄塔までは楽に到達
しかし、鉄塔からは猛藪で接近できず
一時間半ほど、別の鉄塔かもしれないと他の二つの鉄塔をめぐる徘徊を楽しみましたが、やはりこの鉄塔で合っており、一旦は断念しました。
帰ろうと100m程お馬さん走らせたところ、車道切岸を攀じ登れば、北東から接近できるのではないかと閃きが点灯し、Uターン。
ここ
ここからリトライ
ふっ。
ふっ
ふっ
行けそう💛
藪を掻き分け10分、堀に遭遇!
富山県埋蔵文化財センター(2006)「富山県中世城館遺跡総合調査報告書」 より引用
主郭背後を守る堀切
(単郭なので堀も一本しかない)
主郭は後背に土塁を盛る
堀東端
崖まで切り落とす。
西は通路としても使用か
囲い、腰曲輪に接続
腰曲輪から主郭に掘り込まれた出入口に至る。
主郭土塁天端
天端から主郭内(よくわからん)
主郭内
13×14mと狭く、佐伯先生は在地土豪の城館としては役に立たないことから、謙信、景勝の在陣した陣城としている。
東小権現の森と呼ばれる石祠が在る。
腰曲輪と接続する内枡形に掘り込まれた出入口
腰曲輪から堀切への導線
導線に沿って郭内には土塁が沿い、防御力を高めている
下方から堀込(出入口)
この土塁で囲まれた内枡形虎口の存在から、佐伯先生は16世紀後半(謙信・景勝期)の築城・使用を推定している。
南方先端に向かい一段低く平場を置く
佐伯先生は削り残しの尾根突端に降りる土橋としている
ただし、敵が攻めてくる可能性は低いため、遮断施設は設けていないとしている。
先陣を置いた天神山城
鉄塔から
左の小山が天神山城、電線か被るあたりに魚津城。
景勝の想いは…。
参考文献
佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房、p.16