直路城(新潟県南魚沼市清水) | えいきの修学旅行(令和編)

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11年ぶりの再訪。当時、空手のブログで書きましたが、それは貼りません。

 

関越の境・清水口をまもる直路城

城の右手、登川沿いを突き進むと清水峠へ至る

清水越えは、三国峠に比べ急峻であるが、距離が短く、直路と呼ばれた。

私のブログの発端、上杉憲政が越後落ちしたルートも、この清水峠・直路と思われる。

https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496880244.html

ズーム

 直路城は、天正6年(1578)御館の乱の際、三郎景虎を支援するために関東から越後を目指す北条軍に備え、上杉景勝によって三国峠ルート荒砥城とともに取立てが指示された。以下その史料(傍線えいき)

 

 天正6年7月5日 登坂与右衛門尉 樋口主水助 深澤刑部少輔宛 上杉景勝書状

     (前略)、関堺目あらと・直路ニ地利ヲ取候、(後略)(上越市史別編1574)

 

       7月10日 深澤刑部少輔宛 上杉景勝書状

   (前略)堺目江目付差遣、敵方模様聞届尤ニ候、あらと・直路之義、普請申付、出来之由申候、

   (後略)   (同1578)

 

      7月12日 登坂与右衛門尉 深澤刑部少輔宛 上杉景勝書状

    (前略)、其以後関東之様躰如何無心元候、如何ニも相稼、直路・あらと山取立、普請早々出来候

   様ニ可相稼候、(後略) 」 (同1579)

 

 文禄3年(1594)定納員数目録にも城将長尾伊賀守(知行260石8斗6升)以下同心3名、手明26名、長尾と同心の軍役衆を合わせて55.95人で在番している。

 

 直路城は、天正6年ー文禄3年の間に使用が確認できる上杉の城である。

 

北東からみてズーム、郭(数字)、堀名(カナ)を付した。

 城域最高所1(標高約810m)が主郭で、郭2とで中枢を構成する。56人での在番に見合った城である。

 2は前面堀オの前に石塁を用いた3を置き、尾根伝いを上位から監視する。3は城中枢の戸張用途の区画である。また、郭4は堀(カ)の外の区画であり、登路を頭上からおさえる外張用途の区画と捉えている。増援部隊(数十名)の収容も可能である。

 とばり:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12582944464.html

 登路は北下方から4に取付くが、畝型・収斂竪堀が横移動を制限、登坂可能域を限定している。

 

 荒砥城とならんで関越境の守りとして天正6年に取り立てられた直路城であるが、その城郭様相は随分と異なる。

 両城共とばり構想はあるが、荒砥は出入口内に堀込内枡形、出入口外に折れる外枡形(戸張)を用い、その形態に違いがある。さらに荒砥は横堀を採用し、土塁の運用にも違いがある。反対に、畝型竪堀は直路のみある。山容も要因であるだろうが、荒砥のその構造は、天正12年栗林肥前守に命じた荒砥在城(上越市史別編2887)、荒砥関所之儀(同2888)時の改修が考えられるのではないか。同年小牧長久手合戦に連動して関東で起こった沼尻合戦への上杉の対処に、荒砥城改修が含まれるのであろう(1)。

 9年前の記事ですが

 荒戸城その1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882492.html

 荒戸城その2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882536.html

 

 

中枢郭1、2

 

郭2から最高所郭1を見上げる

2後背は一段高く造作され、堀エ、登り坂とで主郭を守る。

 

振り返り

高台から郭2

2は幅約10m、長さ約60mの平場を山上に保持している。

本記事中の数値(標高・比高を除く)は、大家健作図(2)に拠り計算した。

 

途中段差でなんらかの区画もされていたようだ

 

2北西部

北脇に土塁か高台造作か土盛があり、前面にあたる北西端は、堀オ、郭3を置き出入口を固める。

 

土塁上から堀オ、郭3

城中枢への出入口を固める戸張である。

ちょうど石が多く、堀両壁面、3前面土塁に石を使い、城主要部を強固に守る。

 

出入は昇降よりも架橋(切口で)が険難であろう

架橋撤去で侵入を阻止できる。

 

堀オ

 

2側

架橋部と見た。

 

オ北東

 

オ南西

 

郭3

堀オ際が高く、また尾根筋に塁を造作、写真右(北頭)側面は開口している。

塁は石を使い、強固に造作している。

 

北東は切れていて、側面に出入した?(現状は崖で不可)

 

尾根筋塁

 

塁下方

尾根筋の坂で、鞍部に堀カ、鉄塔が建つ郭4に至る(後掲)。

上位占有の砦の様相。

 

3から堀オ越しに2

 

 

堀エへ戻り、郭1に入る

 

エから1

 

上方からエ

 

 

1へ入った

左(北東)に竪堀ウが通行を狭め、その先に段差。

1は幅約10m、長さ約40mで、2を守った兵が退却し、死守する郭規模となろう。

 

竪堀ウ

 

段差上から1北西舳先

先の眺望は、ちょうど上田庄の中心、樺野沢と坂戸を結ぶあたり。

 

さらにもう一段上に鉄塔が建つ

この段は、鉄塔造成のための補強であろう。

後背に高所は、後背からの遮蔽と、後背尾根ならびに清水峠方向を監視する。

 

主郭後背高所

背後は堀イが遮断。

 

高所上

 

後背堀イ

高所造作が遮断深度を増す。

 

斜からイ

越後を守る堀切。

そいえば、城坂城に鋭さが酷似している。

 

イ堀底

主後後背壁

 

堀ア―イ間の尾根

視界先は清水峠方向。

 

堀ア

 

 

尾根先方向と登路

 

3前面尾根筋

降った鞍部に堀カがあり、堀の外に登った鉄塔が建つ郭が4になる。

4には右方(北)斜面から登路が入る。

 4は堀の外の区画になり、私は外張用途の区画と捉えている。

4は、登路を頭上から押さえ、増援部隊を収容することができる。

 

堀カ

 

土橋 北東(右)下方には登路が横切る

 

カ北東

 

カは鞍部なので、登って郭4

堀の外で、高く、独立した区画である。

 

郭4中心

右手に北斜面を登る登路が入る。

 

4から主郭方向

 

尾根先方向

 

けっこう続く

 

あるいは脱出ルートがあったのではないか

 

 

登路

 

北斜面を屈曲し鉄塔付近に上がってくる

4は登路を頭上から監視、おさえている。

登路の屈曲は、竪堀(複数・収斂有り)により横移動、展開を制限している。

 

雪形は竪堀痕を示すものもあり、ナイスなタイミングだった(雪渓を通る際は滑落要注意)。

 

畝状竪堀

 

竪堀収斂

 

 

登り口

 

ここhttps://yahoo.jp/hZXI8C まで車が入る

左の林道を歩行。

 

5分ほどで右手に鉄塔作業路あり

ここから郭4まで15分(比高約90m)。

 

(1)齋藤慎一(2010)『中世を道から読む』、株式会社講談社、pp.146-51

(2)大家健(1998)『図説中世の越後』、野島出版、p.95

 

2021.2 冬の写真を追加

 

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