三連続で奥三河の小城郭
木和田城ヶ根城
標高680m、上木和田集落とは283mの比高がある。10月に一度トライしたが、傾斜・藪とも嶮しく、時間も足りなかったため断念した。
11月、南西から迫れば、傾斜と高度が緩く、道は無くとも到達できるのではないかと執念深く作戦を立てる。到達できる確証が無かったため、独行で企てていたが、遠征前日、原田先生から「木和田城ヶ根行くときは連絡ください。ご一緒します。楽しみにしています。」とメール到来。虫が知らせたのか、運命か。お言葉に甘え、明日行きますと、連絡、同行いただくことになった。
縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』より引用)
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/10/98/j/o0250034214510110775.jpg?caw=800)
この城が陥落したことが、貞奥平氏(貞能・信昌父子)の作手撤収に繋がったという説もある(1)。主郭は10×15mの小さな砦だが、北に土塁で挟んだ武者隠し区画(2)を設け、その下方に出入口を造作している。出入口は、帯郭からの導線を西側竪堀で狭めつつ前面土塁で曲げ、東側竪堀との間を折れて通るという工夫が見られる。
この一連の造作を確認したい一念が、この城への私の執念の根源であった。
尾根続きにもB、Cの堀切が設けられている。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/e3/28/j/o0440029414510110776.jpg?caw=800)
登り口
舗装林道で、駐車スペースもある。
林業作業の踏み跡あり、石が目印になる。
谷の奥まで行って右側の尾根にあがってもよさそうだが、私達は直ぐに右の尾根にのり、北東に登り詰めた。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/b6/01/j/o0440029414510110778.jpg?caw=800)
舗装林道わき、作業踏込み口に石
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/09/d9/j/o0440029414510110780.jpg?caw=800)
ピンクリボンの上が城域で、南から接近することになる
登り口から30分。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/32/64/j/o0440029414510110783.jpg?caw=800)
撮影地が南の前段付近にあたるであろうか
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/18/71/j/o0440029414510110785.jpg?caw=800)
主郭に到達
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/01/81/j/o0440029414510110788.jpg?caw=800)
主郭東部
緑の奥が櫓台状高所。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/60/fe/j/o0440029414510110790.jpg?caw=800)
櫓台状高所
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/db/54/j/o0440029414510110791.jpg?caw=800)
北東眺望
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/7a/97/j/o0440029414510110792.jpg?caw=800)
主郭から南の前段
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/6b/0f/j/o0440029414510110796.jpg?caw=800)
主郭西下 帯郭
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/43/74/j/o0440029414510110797.jpg?caw=800)
主郭から北
武者隠し、導線の造作がある。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/d0/c8/j/o0440029414510110802.jpg?caw=800)
土塁と土塁の間に設けられた区画が石川の指摘する武者隠しか
その下方
竪堀と土塁で帯郭からの導線を折れ曲げている。
土塁内側には横矢が掛かる。
佐分清親は、室町期の城を戦国期に改修したと推定している(3)。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/2d/83/j/o0440029414510110808.jpg?caw=800)
その導線を帯郭から
城外から
書き込み無し
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/94/e4/j/o0440029414510110813.jpg?caw=800)
東竪堀
西竪堀
城内側に竪土塁状が沿う。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/f5/5c/j/o0440029414510110818.jpg?caw=800)
堀B
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190723/00/mei881246/4c/97/j/o0440029414510110820.jpg?caw=800)
堀C
引用資料 愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』
註(1) 定本(1990)定本東三河の城、郷土出版社、p.203
(2)愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』、p.116
(3)佐分清親(1990)「三河の城私考「作手村」」、『古城』第33号、静岡古城研究会、p.8