前記事「犀川を北へ・松原城」と同じ内容ですが貼ります。
地理院地図に作図
弘治3年4月13日、信玄は自筆の書状で長坂虎房に「鳥屋へ島津より番勢を加えあまつさえ鬼無里に夜揺の由候、(中略)追而小川柏鉢より鬼無里鳥屋に向ふ筋々絵図にいたされ候て持参あるべく候也」(『戦武』557号)と、上杉方の島津氏が水内群の鬼無里方面に攻勢をかけているとの報告を受けたので、小川・鬼無里・鳥屋地域の絵図を届けよと命じている(1)。
翌4年4月には上杉勢の撤退した後の川中島地域の処置として、信玄は柏鉢城・東条城・大岡城の籠城衆として新たな番手衆を配備することを通告している(2)。
永禄4年の第四回川中島合戦の後になるが、武田は同6年には飯縄山山の麓への迂回路を造り終えている(3)。
じわりじわり、晴信の野望が越後へ迫っていく。
(1)柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院、p.31
(2)前掲柴辻著書、p.33
(2)前掲柴辻著書、p.35
柏鉢城
松原城から柏鉢城を目指した。
その姿を望見したときには、ヘルメットの中で咆哮してしまった。
一連のこのエリアの徘徊の目標は、この柏鉢城で、『らんまる攻城戦記』の記事により私の心に火が付いたのが発端であった。いきがかりじょう、犀・聖川沿いの諸城を踏み潰しての到達であり、おもえばはるかな地にようやく至った(ガンダーラな気分)わけである。
山麓・清水集落の背後柏鉢城直下には御旅屋とよばれる屋敷跡があり、水路等が残る
前編では御旅屋の拘りを提示し、主郭の写真一部、城登り口から稜線上城域手前まで、後編で山上柏鉢城を辿ります。
水路
水源からの水路
屋敷区は幾区画もあり、随分と広大
国衆クラスの根小屋に匹敵する。
武田の在番衆全てが山上に居たわけではなく、日常はこの御旅屋に駐在したのであろう。
石積も見られる
屋敷区画に散在する岩が私の心に留まった
昨年来、岩や大石の憑りつかれている。
なにか私にしゃべっている気がする
御旅屋という名称から、武田在番衆が駐在する以前から、あるいは近世のある時期まで、諸国を廻行する宗教者が宿泊する施設があったのではないだろうか。
私のこだわりを書いたので御旅屋はこれくらいにします。
御旅屋に関しては『らんまる攻城戦記』で各将の棲み分けにまで検討されているので参照ください。
参考サイト
らんまる(2015)「柏鉢城の御旅屋御殿群」、『らんまる攻城戦記』
(http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-708.html (2018.4.16))
さて、城へ
後編の写真容量が越える可能性があり、編集都合上、主郭の一部写真と眺望を前編のここに割り込みます。
ワープ
柏鉢城主郭(北東から)
昭和55年5月1日長野市指定史跡説明板
規模と構造の記述は、かろうじて読むことができる
上部には縄張図が掲載されていたのではないか。
しかし、図面は痕跡すら読むこと能わず…
標柱も力尽き、折れている
自治体の保存力も、刀折れ、矢が尽きたようだ。
北東眺望
景虎が旭山城を再興・保持するのであれば、景虎・島津等が来るのはこちらか。
南東眺望
直下清水集落
登り口
清水集落から舗装林道を清水配水池を過ぎて進むと柏鉢城跡の表示がある。
柏鉢城跡の表示
ここから取り付く
東面は全景写真でみた如く、急壁
天険の要害である。
表示看板はあるものの、途中の道は崩れ消えている個所もあり、危険を伴う。
登り口から16分、稜線にでる
ここ
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』に準拠し、郭・堀名をおおよその位置に書き込んだ。
稜線上、城と反対側
虫倉山方向。
柏鉢城方向
…。
天空の土橋。
東側
竪堀、掘ってる?
土橋の先がまた危ない…
歩く姿が清水集落から見えるはず
昔、行者が歩く姿を畏敬したのではないか。
ピークは見張台か
先の登り口から稜線上へ出で、土橋関門に入るところ
一旦降る
降った先、鞍部に土橋と堀ア
土橋
前編、ここまで。
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.436-7