犀川を越え、北へ・松原城(長野市中条日下野城) | えいきの修学旅行(令和編)

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  7月以来、犀川、聖川沿いに小松原、吉窪、上尾、和田、城ノ入、蟻ヶ城、左右前山城と書いてきました。

 ここからは犀川の線よりも北上し、柏鉢城、戸隠栃原城館群へと書き進めようと思っています。
 ちょうど武田が弘治三年(1557)第三次とされる川中島合戦の頃からの武田の動きに該当します。
 
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地理院地図に作図
 同年4月13日、信玄は自筆の書状で長坂虎房に「鳥屋へ島津より番勢を加えあまつさえ鬼無里に夜揺の由候、(中略)追而小川柏鉢より鬼無里鳥屋に向ふ筋々絵図にいたされ候て持参あるべく候也」(『戦武』557号)と、上杉方の島津氏が水内群の鬼無里方面に攻勢をかけているとの報告を受けたので、小川・鬼無里・鳥屋地域の絵図を届けよと命じている(1)。
 翌4年4月には上杉勢の撤退した後の川中島地域の処置として、信玄は柏鉢城・東条城・大岡城の籠城衆として新たな番手衆を配備することを通告している(2)。
永禄4年の第四回川中島合戦の後になるが、武田は同6年には飯縄山山の麓への迂回路を造り終えている(3)。
 
 じわりじわり、晴信の野望が越後へ迫っていく。
 
  柏鉢をさっさと書けばいいのでしょうが、柏鉢へ向かう途中に引っ掛けた松原城が、晴信の意を受けた武田権力が浸透する前の在地勢力の城の姿、信濃の城の平の情景を色濃く残しています。
 そのどこか懐かしい松原城の情景が気に入りましたので、犀川沿いと呼んでもよさそうですが、犀川以北の城達の先鋒として書こうと思います。
 
(1)柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院、p.31
(2)前掲柴辻著書、p.33
(2)前掲柴辻著書、p.35

 
松原城
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土尻川に落ち込む急峻な山に築かれている
 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版(以下宮坂本2)によると、春日氏に属する者が居住した守ったと推定し、『長野県町村誌』からの引用で、川中島戦の時に上杉の為に焼討に合ったとの伝承を記している。
 謙信、私の地元では義の武将と呼ばれるが、出征先では随分と焼く。
 
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高度を上げて
   宮坂本2に準拠し、郭・堀名をおおよその位置に書き込んだ。記事中測地も同書に拠る。
高所に主郭1、1の下部、西から南に郭2を置き、北は2本の堀切で遮断する。東、南、北(堀加工壁)は急壁で、西側が城の平と呼ばれる台地になる。
   周囲から隔絶された別天地である。
 
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土尻川から
頂部主郭の北(写真で右)の堀が見える。
要害である。
 

 

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城の平
天明山中騒動の集号の地でもある(説明板有り)。
 
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大町街道と中条市街地(?)を見通すことができる
 

   
城へ

 

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北を遮断する堀切
土尻川から撮影した写真に写る程の堀で、この城の主防御施設である。
右高所が主郭1。
 
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主郭より低く西から南に郭2を置く
 
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堀西下方
箱掘段差構造かとも考えたが、全体の造りが古く、そうではないであろう。
 
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堀底高所
 
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主郭を見上げる
造りは古くとも、十分な高低差の壁であり、頭上から・投石を浴びると攻め手には厳しいであろう。
 
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堀東端
土尻川までの急壁。
 
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主郭への取り付きから北の堀
対岸、約50m北にもう一本堀切を設けている(後掲)。
 
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主郭への取り付き
北隅へ西から取り付くが、出入口の造作はない。
 
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原城主郭
東(左)は土尻川までの急壁。
 
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東面急壁
要害である。
 
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東辺縁から
 
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西下方郭2
 
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2南部
 
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2南部から主郭方向
緩い傾斜と緩い削平。
 
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南部下方にもう一段
その南端下南東に向かって竪堀が一本設けられている。
 
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竪堀
 

 
堀切の北
 
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主郭北堀切から北尾根
天神の痕跡がある。
 
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天神様の痕跡
宮坂先生調査時で、城の平には4軒の民家があり、うち2軒は無住という。
祭祀の途絶も無理もないであろうか。
 
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振り返り、堀越しに主郭
切岸壁は鋭い。
 
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北尾根
尾根右(東)は急壁で、防御は不要だが、土塁状に風よけとなり、左(西)側の区画を抱く。
 
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抱かれた区画
 
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堀が断ち切る
 
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堀は林道と尾根を横切るように尾根を断ち切る
 
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林道右(東)堀型
 
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林道左(西)堀型
 
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最後にもう一枚城の平
 
   まとめ
 
 松原城は、先に書いた和田城、城ノ入城、蟻ヶ城といった堀の厳戒多重化・出入口造作・土塁の運用といった甲越上位権力の関与を匂わす要害普請とは異なる様相の城である。
 想定される争乱が、甲越といった大勢力による介入が及ぶ以前、その頃の信濃の山中侍の城の姿とは、このような姿だったのではないだろうか。
 

 
 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.434-5