堀ア北東土橋から城内へ入ります
堀ア北東土橋
この土橋も頭上から監視されている
この削り感、堪らない
堀ア
頭上監視下、進む
古風だが、必要にして十分な厳関門である。
振り返り堀ア
高所への取り付き
出入口造作か。
高所から堀ア(緑に隠れている)、土橋
このような書き方では、また膨大な記事になってしまう。
主城域へ
堀イ
堀ウ
ウ掘り下げ
堀ウからは1´下の高所へ伝う道がある
険しい主郭搦手導線と考える(後述する)。
通用は北斜面をトラバースしたようだ
もちろん左側面高く、郭1が監視している。
側面頭上郭1が監視
約60mトラバースし、10m程登る
上がった先で、北斜面を西に堀エへ回るルートと、斜面を登り主郭北出入口へ入るルートに分岐する。
北斜面を西まわり・堀エへ回るルート
主郭へ登るルート
一折れし、堀込みに入る。
主郭
堀込み
平沢城など、武田の対上杉山城にみる堀込み出入口の類型であろう。
弘治段階で、この構造があったとすると、私には衝撃である。
堀込内で右抜けしてるように見える
弘治段階の敷設ではなく、永禄期(後期か)あるいは天正期の敷設ではないか。
弘治であれば衝撃であるし、永禄後期であっても、天正期上杉よりも、一時代進んだ武田の出入り口構造である。
ここで主郭西の枡形様堀込に対する私の評価と関係するので、私の拘りを書いておく。
付近の武田の平城(上杉・徳川期も使用)である牧之島、海津城の枡形虎口は、城内に向かって左から入り、枡形内で喰い違い、右から抜ける構造である。
私の拘りとしては武田の出入口は、左から入り、右に抜ける指向である。
比較のため西枡形様出入口も書いてしまおう。
西枡形様出入口(郭外から)
踏み跡が左抜けしているように見える。
西枡形様出入口への入り
導線は右から入っている。
開口下方の堀エ
堀エとエへのこの傾斜は、主郭西の遮断線・壁であるはず。
導線は、城道の痕跡ではなく、近代に何か引き上げた痕ではないか。
主郭内から西枡形様出入口
一見、城出入口構造としての枡形にみえる。
しかし、枡形の大きさが周辺山城の出入口としては大きい。
そして、枡形への入り、枡形内の導線が、郭内に向かって右から入り左抜けである(この写真は郭内から撮影のため、左から入り、右抜け)。
縄張からしても、開口下が遮断堀切であり、城構造としては出入口敷設に合理的ではない。
したがって、私はこの西枡形様出入口は、城構造としての出入口ではないと考える。
郭内少し引いて西枡形様出入口
開口近くにドラム缶と大石が数個。
このドラム缶と大石は近代の何らかの意図に用いられたもので、その何らかの意図の要請により何かを運び入れるために造られた(破壊)搬入口と考える。
柏鉢城主郭(西から)
北堀込み出入口が主郭主出入口と考える。
また、北東尾根(辿ってきた)堀ウから急登りして1´下方から入るルートもある。こちらが搦手であろうと考える。
ほぼ中央から北東
主郭からの眺望は前編に掲載。
1´
1´下方細長段
この段と、もう一段下方の細長段との付け根に北西尾根堀ウからの急登ルートが入る。
このくびれに、左から堀ウからの急登ルートが入っている
搦手と観た。
細長段突端下掘ウ
ウ、併せて急登ルートを頭上監視する。
北堀込み出入口を郭内から
これが主郭主出入口と考える。
堀込下方で辿ってきた北東尾根筋へのトラバースルート(右へ)と西まわり・堀エへ至るルート(左へ)に分岐
分岐右方
北東尾根へのトラバースルートを頭上監視。
分岐左方
西まわり堀エへ至るルート。
こちらも頭上監視。大手(主)ルートは、西枡形様出入口からの導線ではなく、これがそうであろう。
南西尾根
北堀込み出入口から、西まわり・堀南西尾根へ
もちろんこのルートも左頭上郭1の監視を受けている。
堀エ中東に井戸
エ東端
エ底から郭1西枡形様出入口への導線
やはり私にはなにか引き上げた痕に見える。
南西尾根、郭2への導線
郭2
大手ルートはピークを避けて北西下(右側)を通る。
登り詰めると一段下に郭3で、3南西岩壁突端で行き止まる。
2南西の高所
右下に大手ルートを監視。
南西下に郭3
宮坂先生は「大手の重要な防御拠点である」としている。
3南西端
南西尾根を岩壁上から監視する。
この自然の堀割までが城域であろう。
岩下洞窟に天神社が祀られ、その前が土橋となっている。
郭2から西下を進み、3南西岩壁下へ
土橋がいい。
天神社
土橋
まとめにかえて
その様相を『らんまる攻城戦記』で目にしてより、ガンダーラな気分ではるかな秘境に想いを馳せていた。登路はやや難もあったが、念願かなって到達することができた。
天空の土橋、堀切、そして出入口の造作に息を呑み、徘徊中に雲行きが怪しくなり焦りもしたが、興奮はとどまることはなかった。
天空の稜線上に土橋と堀切を設け、天嶮を利用した柏鉢城は、主郭には出入口以外には侵入を許さない。
ゆえに出入口は、その時点での武田の最先端の技術を用い構築されたのだろう。
柏鉢城は、まさに武田の在番衆が越後勢に備えた歴史の舞台である。
引導をいただいたらんまるさんには、感謝の言葉を申し上げたい。
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.436-7