蟻ヶ城(長野市大岡中牧) | えいきの修学旅行(令和編)

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蟻ヶ城
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犀川沿い、聖川沿いの城を綴って蟻ヶ城へとたどり着きました
 
 蟻ヶ城概念図
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 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版(以下宮坂本2)を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に地理院地図に作図した。 記事内測値も同書に拠る。
 
今まで書いてきた犀川・聖川沿いの城は、もともと在地武士の城であるということが基本で、情勢に応じて受けたであろう武田・上杉ら大勢力の影響をそこに見てきた。
 しかしこの蟻ヶ城、伝承・記録等いっさい無く、在地武士・勢力の城ではないようである。
 実見すると、主郭南西の出入口構造は、私は越後・北信濃の天正期上杉城郭に見る逆四角錐台形に堀込まれた虎口の類型と見る。南斜面に執拗に施設された畝状空堀群も、永禄後期から天正期に上杉圏城郭に多用された上端の揃った櫛の歯状畝状空堀群である。南と西尾根方面をその畝状空堀群で警戒しているのに対し、北尾根は二重堀切で遮断しているが、二重堀間に城戸構造があり、堀イ東から郭2東下斜面を通行し、堀アに至るルートが存在、また東尾根からも堀エ上部から東斜面を堀アに至ることができる。
 各尾根筋からのルート設定、備えは効果的で抜かりがない。
 
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蟻ヶ城は、城ノ入城の聖川上流方向約7.7km南西、牧之島城の南南東約4.9kmに位置する。
 
 この地に上杉勢が進出するのは、天正10年6月の本能寺の変以降であり、上杉勢は7月には牧之島城を押さえている。当時、海津・鞍骨城に在陣する上杉景勝本軍と川中島で対峙していた北条勢が、牧之島城内に居た加津野昌春の内応に乗じて夜襲を企てたが、夜崩れを起こし撤退している(1)。北条本軍は7月19日頃には川中島から撤収、甲斐へと軍を転回させた。
 景勝は7月26日に芋川越前守親正を牧之島城に入れ、自領国境目の拠点城郭として、小笠原貞慶に対する警戒を強めた(上越市史別編2481)。小笠原勢は同年8月、日岐城(蟻ヶ城の南西約13km)を攻撃、激戦が繰り広げられた。日岐城は9月には落城、日岐盛直等は日岐大城に移って小笠原への抵抗を続けたが同11年8月には日岐大城から脱出、上杉氏を頼った(2)。
 また、同年3月には、景勝は牧之島城将芋川に対小笠原の築城を命じている(上越市史別編2688)。この文書に関しては馬念さんが(2012)「大野田城(砦)はどこ?」(3)で検討されているので抜粋し引用する。
 

  上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集1」2688号)で、以下のものです。

「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略) 
   三月七日         景勝 
        [芋川越前守殿] 
       右同人へ」
 この書状からしますと、景勝は、親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検使か)として送ったことが分かります。
 
  同年4月には、筑摩郡麻績・青柳城を廻って激戦が繰り広げられ、景勝がそれを攻略している。
   このように蟻ヶ城周辺における小笠原と上杉の緊張は、天正14年10月の家康上洛による「信州軍割」の完成(4)まで続くことになる。
 
 序ですが結論です。
 
 私は、蟻ヶ城は、これら情勢と城郭構造から捉える上杉圏城郭の特徴を根拠に、天正10年7月から14年10月までの間に上杉景勝勢(それも越後衆)によって牧野島城防衛と小笠原領進攻のために取り立てられた新城と考える。
 軍勢の収容力が低い事が懸念ではあるが、主郭出入口構造ならびに北尾根二重堀切間関門構造の威容から、景勝出馬時の在陣(本陣)も想定して築かれた城ではないかと考えている。
 

 
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南東麓四阿山社脇から掘割形状の一本道が蟻ヶ城への登り口(城道であったかは疑問)
このあたりhttps://yahoo.jp/erO00Kから北に踏み込むと四阿山社
 
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中段差造作のような箇所もあり、城道であったかもしれない
 
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苦行8分、山上主郭1下腰郭南部に至る
掘割道の西(左)に2条、東(右)には堀アまで9条の畝状空堀が敷設されている。
 主郭へは、祠のある削平から左に斜め回り上がり、逆四角錐台形の掘込に入る。そこが主郭の出入口であろう。祠のある段は、出入口下の受け場だが馬出ととらえることもできないだろうか。
 
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腰郭南端から山麓四阿山社へ至る掘割道
 この一本の堀のみ長大に山麓まで掘られているが、城ルートであるかは疑問。南は城構造からすると警戒面であり、ルートの設置は無くてもいい。また城道だとしても、一本直登なので上部からの射撃は真直ぐ撃ち下ろすだけなので易いであろう。
 
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腰郭西部
 
腰郭西部下畝状空堀群
 畝状空堀群上端を西尾根へ至る通路があり、腰郭は通路ならびに畝状空堀群を頭上から監視している。まさに上杉圏構想であり同構造である。
 
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南西腰郭は南ー西尾根通路を監視
 
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腰郭北端
西尾根を監視、迎撃する陣地である。
石の存在が気にかかる。まさか櫓の礎石ではないだろうが、投石用か。
 
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腰郭北端後背は主郭西端が監視
 
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腰郭北端から西尾根
 西尾根を堀カで警戒、北斜面への回り込みを畝状空堀群で阻止しつつ南の畝状空堀とで挟み狭く限定した尾根筋を腰郭が頭上から監視する南尾根への通路へと誘導する。むろんその行程はここからの頭上監視・迎撃下にある。
 
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西尾根筋南の畝状空堀
西尾根筋を北畝状空堀(残雪箇所)群とで挟み通行可能筋を狭く限定している。
このあたり、石の堆積がある。
 
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北斜面畝状空堀群
 
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狭められた尾根筋から北畝状空堀群
石も用いた戦国の厳相。
上方、腰郭北端が監視している。
 
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 敵兵は、畝状空堀群により通行を限定されたこの尾根筋を、腰郭北端の頭上監視・迎撃を受けながら進むのである。
 
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通路折れ部付近の石の堆積
 
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下方、堀カ
 
腰郭南端へ戻る。
 
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掘割道より東方の腰郭
掘割東方は畝状空堀群上端に通路は無く、腰郭が北方からの通路になる。
 
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掘割道東方畝状空堀群
9条は確認でき、宮坂先生は他に2条痕跡をとっている。
 
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腰郭北端から堀アと畝状空堀最北1条
堀アは南東に約59m掘り下げているが、対岸東斜面とこの腰郭は接続すると考えている(後述)。
 
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堀ア上方
 

 
主郭1・2へ
 
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祠の削平を経由し、左回りで主郭へあがる
(素の真実を優先し、導線書き込まず)
祠のある削平は主郭出入口を守る馬出にも成り得るか。
 
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書き込まないが、この写真ならば理解いただけようか
 
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回り登った先に堀込の痕跡
主郭の出入口であろう。
城ノ入城主郭には堀込・出入口構造は無い。
 

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西からみるとわかりやすいやすい
 小振りだが、私は野尻新城、鴨ヶ岳城、桝形城、鞍骨城に構築された逆四角錐台形の出入口の類型と観た。この出入口を備えた信濃の城郭は、天正10年6月以降に国衆が復帰した城ではない。
蟻ヶ城主郭のこの出入口構造は、天正10年6月本能寺の変以降、北信に進出した景勝勢、それも越後衆による構築と考える。
 
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郭内から
 
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蟻ヶ城主郭
 逆四角錐台形の堀込み出入口は南西にあり、写真奥の北東辺には土塁が設けられている。土塁下は堀アで、郭2と区切られている。
 
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西斜面
急傾斜のため、造作はない。
 
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郭1北東辺土塁
郭2とは、土塁、堀リアで区切られている。
この土塁、一部石使いのようだ。
 
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土塁上から堀ア、郭2

 郭Ⅰ-2間は、宮坂図では写真左端の土塁の低い部分から堀ア底に降り、昇る接続を想定していたようだ。

欠け部からの架橋も可能性としては有だろうと考える。

 

 
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堀ア南東掘下げ
約45m降り下る。
 
 先に少し触れたが、北・東尾根からのルートが堀アを越えて腰郭東部北端に入ると考えている。このルートに関して後編で詳述する。
 
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アの北西掘り下げは短い
 
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郭2
北寄りに土塁がある。
 
振り返り、
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堀ア越しに郭1
 
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郭2から東尾根
 郭2東下斜面には私が大手ルートと考える北尾根から堀アに至るルート(後掲)が通り、郭2はそのルートを頭上監視する。
 
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郭2土塁越しに郭2北部
北端、北尾根を堀イ、ウで二重堀切で遮断(通行可)する。
 

   
北尾根
 
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堀イ、ウの二重堀切
堀イ―ウ間の畝には窪み造作がある。
  どのような構造かはわからないが、堀切を越えるための構造であろうと考える。堀イ東(写真右)回りで郭2東斜面を堀アに至るルートが存在するからである。
 
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角度を変えて窪み
撤去可能な橋で架橋するための構造も考えることができよう。
 
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北尾根側から
二重に堀切っているが、私は、こちらが大手と考える。
 
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窪みは、堀込虎口に相当する格の関門構造であろう
さらに二重の畝は石塁ともいえる補強がされ、強固かつ只ならぬ威容を放つ。
 
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ごくん
 
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石塁、いや、石垣構造
 
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信濃の天空に二重堀切
 

 
東尾根
 
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堀イ底から
東斜面に一筋痕跡。
 
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東尾根堀エ上方の削平に至る
この先、道は堀アに至る。
写真右斜面上は郭2で頭上監視下にある(後掲)l。
 
名残惜しく北尾根を振り返る。
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関門構造を確信
 
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東尾根 堀エ
堀エは尾根先側に削平があり木板を置けば通行可能である。
また左右堀下げが20mを越えて長い。
堀エの先は数段削平があり堀オまでを城域とする。
 
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掘エ掘下げ
容量の限界が近く南西1枚のみ。
 
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堀エ
東斜面には先の堀イから堀アに至る道と、堀エの上方から東斜面を堀アに至る道がある
 
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エの上方から東斜面を堀アに至る道
堀ア土塁上端に至る。
 
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土塁の上端から堀ア対岸腰郭北端に降り昇り接続したであろう。
その先、腰郭を南に進み、祠の削平段、逆四角錐台形の堀込出入口を経て主郭へと至る。
 
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先の堀イからのルートの堀ア到達地点付近から堀ア対岸腰郭北端への接続
堀アに降り、腰郭へ昇り接続可能である。
北尾根からのこのルートが、蟻ヶ城の主ルートと私は考えている。
 

   まとめ
 
 序で結論を書きましたので略します。
 

参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.350-1
 
註(1) 平山優(2015)『天正壬午の乱 増補改訂版』、戎光祥出版、pp.174-6
  (2)前掲註(1)平山著書  pp.236-40
 (3)馬念(2012)「大野田城(砦)はどこ?」、『古城の風景』
 (blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/22823715.html  (2018.7.24))
 (4)竹井英史(2012)『織豊政権と東国社会』、吉川弘文館、 pp.142-68