寺尾城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

後編2では私が特記したい構造を中心に書きます。
 
イメージ 1
まずは堀エから搦手方向堀キまで、次いで大手側の堀アからウ間の順で辿ります。
途中、私の注目構造を特記します。
 
 〇えいき特記構造1
    ★郭5の掘り込まれた虎口(え特1)
 〇えいき特記天正期上杉圏改修と捉えたい構造2 
   前面に浅い土塁を備えた堀と後背土塁を備えない郭による上下二段の防御施設(ⅰ)
  と防御ライン構想
   ★堀カ・郭5(え特2-1)、堀ア・郭3(え特2-2)、
   ★  郭2-3西面の石積防御ライン(ⅱ)(え特2-3)
 〇えいき特記天正期上杉圏改修と捉えたい構造3  堀端の造作
   ▲堀キ(え特3?) 
   ★堀ア(え特3) 
 

 
まずは堀エから搦手方向北東堀キまでを辿りながら特記する。
 
〇え特1 〇 え特2-1
 
イメージ 2
堀エから一郭あって郭5
5には、北東に掘り込まれた虎口(え特1)が構えられている。

 また虎口下方の前面に浅い土塁を備えた堀カと後背土塁を備えない郭5による上下二段の防御施設堀の上段陣地にあたる(え特2-1)。

 
イメージ 3
5北東に掘り込まれた虎口
 
イメージ 5
上段陣地5から想定照準イメージ(緑により土塁みえず)

下方の前面に浅い土塁(胸壁)を備えた陣地とで、上下二段で緩い傾斜の尾根に備える(え特2-1)。

 
イメージ 6
虎口前導線途中から堀カ底
この写真であればカ前面土塁がわかる。
 
イメージ 7
前面(胸壁)土塁
 
イメージ 8
土塁前緩斜面(尾根)
 
イメージ 9
土塁前から上下二段陣地・防御ラインに立ち向かう
この解釈、如何?。
夜交大城でも同様に読み解いた:http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/18006803.html
 これを天正期上杉圏構造であり、改修を天正10年以降とすると、堀込虎口も同時に造作したものであろうか。その時期の上杉圏掘り込みは逆四角錐台形が類例が多く、また武田圏最前平沢城にも堀込まれた虎口があり、武田期の造作かもしれない。しかし、城の格の違いで天正期上杉方がこのように小さく掘り込んだのではないかとも私は考えている。
 
その え特1虎口ををもう少々
 
イメージ 10
虎口前から堀込み虎口
 

イメージ 4

郭5から掘り込み虎口
掘り込んだ虎口造作は尼巌城では見なかった。小城の寺尾城に掘り込まれていて感動してしまった。
この郭5の重要性の現われと捉えたい。
 
 

 
カの北東
 
イメージ 11
地山のような緩い傾斜の尾根が約30m
 
イメージ 12
傾斜がほぼなくなり
郭6
約40m先に土塁、土塁先に城域を区切る堀キ
 
イメージ 13
側面から土塁
ここの土塁は、堀の前ではなく、堀の後(城内側)に設けている。
上段陣地が設けられないからであろう。
 
イメージ 14
土塁下に堀キ
 
イメージ 15
堀キ

 ここで、え特3?
 
上の写真をもうちょい引くと
イメージ 16
堀端に石積が見られる
 堀底を箱状と見れば、段差を設けた城構造としての石積と捉えたいが、後世に土塁内郭6の耕作・林業作業のために設けられた通路(一輪車など)のようにも見える。
 後者の方が優勢。
 
しかし、え特3では前者が優勢になる。
 

   
ここから大手方向主郭の南西区域
 
〇え特3  堀ア堀端の造作と 
〇え特2-2★堀ア・郭3(前面に浅い土塁を備えた堀と後背土塁を備えない郭による上下二段の防御施設 と防御ライン構想)
 
イメージ 17
堀ア北西端石積
これも耕作用通路か?
私はそうは思わない。
 
イメージ 24
石積上・端から下方を見る
端を石積することにより、下方を警戒する陣地としたのではないだろうか。
 大手とされる愛宕社から郭4へのコースは、容易ではなかった。あるいは、西麓から取りつき、この堀ア下方を横切る大手ルートがあったのではないだろうか。この堀端陣地は、その大手ルートへの監視に成り得る。
 
イメージ 33
 薬研堀を埋めて浅くし、端を石積とすることで端まで通行・陣地として使用可能に補強し、下方を警戒する陣地として使おうとしたと観る。
 城遺構、それも天正期上杉圏構造と捉えたい(苦しいか…)。
あの山の上の大岩城の構造を類例としたい。大岩城3 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/17285461.html
 
え特2-2
 
イメージ 25
堀アは、前面に土塁を備え、後背に郭3を背負う。郭3には土塁がない。
 つまり、この構造は先述え特2-1と同様の防御施設であり、天正期上杉圏構造と考える。堀端石積造作も同時に行われたと考えることはできないだろうか(しつこい)。
 
イメージ 18
前面土塁を胸に当て前方馬場郭4を見る
 
イメージ 26
上段陣地郭3から
郭3は前面に土塁を備えない。
 
イメージ 32
郭4から二段陣地に向かう
 
イメージ 20
南東端も石積造作がある
 宮坂2では土留めや道の補修で後世のものと思われるとしている。たしかに郭2・3南東下方に張る帯郭への通路でもあったと考えるが、かつ、端を石積にすることにより、下方警戒陣地、かつ侵入を防ぐ(はね返す)段差と成り得ないだろうか。
 左にもう一本竪堀イが沿う。
 
イメージ 19
竪堀イ
 こちらも上端を石積にすることにより、通路かつ、下方警戒陣地かつ、侵入を防ぐ(はね返す)段差と成り得る。
 
イメージ 21
イ上端石積
 
イメージ 22
下方から
石積で障壁段差ともなり、攀じ登れない。侵入者をはね返すことができる。
ようにも見えませんか.
堀端石積を城構造とすのは苦しいか…。
 
イメージ 23
ア南東端
 

    
★  郭2-3西面の石積防御ライン(2)(え特2-3)
 
 宮坂2では
 
   2と3の西側に見られるように曲輪を連続した形で斜面上石積みの防御線を引いていることに気づく。この方法がどのくらい効果があったかの問題は別として、ある時期に石積による改修がなされたことが考えられよう。
 
 としていて、この石積は城遺構として捉えている。
 
イメージ 27
郭3西面石積
この石積は上方の郭2西面とも一線を成して設けられている。
 
イメージ 28
もう一枚郭3西線
 
イメージ 29
郭3
 
イメージ 30
上方郭2
郭2は三段に構えられ、中段には土塁状の高まりがある。
 
イメージ 31
郭2西線石積
 
   まとめ(感想)
 
 寺尾城は主郭のスペースが分限に比して異様に小さく、奇異にさえ思える。もしかすると主郭に守る対象が特異なものなのではないだろうか。
 また、私が天正期上杉圏下の改修と捉えたい構造が随所にあり、天正10年以降の上杉景勝圏下の使用を妄想して随分興味深く徘徊を楽しむことができた。
 

  
  註
 (ⅰ) 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。
 (ⅱ)宮坂2においても、郭を連続した形で斜面上を石積みによる防御線を引いているとし、ある時期に石積による改修がなされたことを示唆している。
 
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版