尼巌城の記事振りからは霞城に行くべきですが、石門を実見していないので、さきに寺尾城を書きます。
寺尾城と尼巌城
寺尾氏は武田の北信侵攻に際し、前記事の尼巌城東条氏のように抵抗はせず武田に付いたようだ。宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』(以下宮坂2)によれば、天文19年の武田の砥石城攻めに際して村上・高梨の連合軍に攻められ、晴信が真田に地蔵峠を越えて救援に向かわせた城がこの寺尾城とされる。金井山城の記事(p.67)では、寺尾城は落城して寺尾氏は越後へ奔ったようであるとしていて、落城し、長尾方へ屈服したのであろうか。
天正10年、北信に進出した上杉景勝領有下は、寺尾伝左衛門が在城した。
寺尾氏は文禄三年定納員数目録では828石、慶長5年会津分限では1650石となっている。
東条氏は文禄515石、慶長会津300石、ちなみに夜交氏は文禄558石、慶長会津1000石。
東条、夜交に比して、やや身代は大きい。
宮坂2に準拠し、郭・堀名をおおよその位置に書き込んだ。
本記事中測値も同書に拠る。
寺尾城は、私的には惹かれる構造が幾箇所かあり、なかなか興味深い城でした。
そのあたりは後編2で特記します。前編1では概要と主郭周辺主要部、郭4、登り口を掲載します。
後編予告
〇えいき特記構造1
★郭5の掘り込まれた虎口(え特1)
〇えいき特記天正期上杉圏改修と捉えたい構造2
前面に浅い土塁を備えた堀と後背土塁を備えない郭による上下二段の防御施設(ⅰ)
と防御ライン構想
★堀カ・郭5(え特2-1)、堀ア・郭3(え特2-2)、
★ 郭2-3西面の石積防御ライン(ⅱ)(え特2-3)
〇えいき特記天正期上杉圏改修と捉えたい構造3 堀端の造作
▲堀キ(え特3?)
★堀ア(え特3)
では前編 主要部 堀ウから主郭1へ
主郭の南西方向を守る堀ウ(主郭側壁途中から撮影)
上幅13m、両側の掘り下げは約40m、主郭側城壁は11mの寺尾城最大の堀切である.
西側掘り下げ
東掘り下げ
堀ウ底から主郭側城壁
壁面維持か、このような石積みにときめく
乗り越して上がると6×18mの主郭虎口前スペース
馬出しとも呼びにくいが主郭虎口前の空間であり、重要であろう。
奥に主郭開口虎口。主郭は土塁で囲郭されている。
左(西)側面に竪堀一条
竪堀
西側面回り込みを阻止。
主郭開口虎口
石積で囲郭土塁の開口を造作
寺尾城主郭
囲郭され、22×16mと500石分限にしては狭い。
写真奥が北で、北土塁敷は9mほどある。
この主郭が守るものは何か特異なものなのか。
虎口から虎口前導線と虎口前6×18の郭
付き従う別格造作も興味深いが、ここも合わせて主要部となろう。
北土塁下の石碑には寺尾殿之墓と書かれている。
左回りに囲郭土塁を見ます。
主郭南東面土塁
主郭北面土塁上
櫓台として使用できる幅である。
石積による補強がみられる。
石積
北壁面は後掲。
北土塁上から主郭
虎口開口を確認。
主郭北西面土塁
一条竪堀痕有。
主郭北西斜面竪堀痕
主郭背面
北土塁壁下に堀エ。
堀エ
エ南東端
北は土塁で仕切り、堀オを添える。
堀エ北東の一段から主郭側主郭背後壁
石積壁面
へきっ
石積により、土造作よりも垂直に近くなる。そこまでかろうじて攀じ登って取り付いても、その垂直壁に跳ね返され、それ以上への侵入を拒む。
郭4
馬場とよばれる郭4
長さは100程で幅は南端21m、中央部24mで長大である。
広大なスペースを確保する意義はあろうが、特段の防御構造はない。また、後編で詳述する★え特2-2前面に浅い土塁を備えた堀と後背土塁を備えない郭による上下二段の防御施設・堀アにより監視される空間である。
凸段部
随所に石積
登り口
南西山麓愛宕社から取り付く
郭4まで10分。
けっこうしんどい。
このあたりも郭を利用したのであろうか
後背を攀じ登る
ここから郭4まで容易ではない。さらに帰りはロストした。
ほんとうに大手か?と疑問に感じた。
註
(ⅰ) 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。
(ⅱ)宮坂2においても、郭を連続した形で斜面上を石積みによる防御線を引いているとし、ある時期に石積による改修がなされたことを示唆している。
参考文献
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.160-2