尼巌城後編 | えいきの修学旅行(令和編)

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 尼厳城

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後編では主郭から西に連郭に普請される山上主要部の要害構造と大手ルートを辿ります。

 

 
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ブログ説明用のため、現地設置宮坂武男作図鳥瞰図を切取り、郭・堀名を同縄張図に準拠し加筆。
主郭から西に普請がされている。堀ウ、オ、キが越後勢に備える前、中、最終の防御線となろうか。
 
再掲写真
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尼巌城主郭1(東から)
 
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天水溜か
 
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絶景なる眺望
 
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前編の補足 
北下帯郭。
藪のため郭2への接続は確認できないが、宮坂図では接続している。
 
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郭1の西、一段低く郭2
堀キとで主郭を守る。
最終防衛ラインになろう。
 
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掘キ
キの西は小高く郭3。
 
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郭3は南(左)に帯郭が付随
 
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小高く郭3
西を警戒する櫓台であろうか。
 
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帯から堀キ越に郭2
 
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堀カ
 
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カの西は三段先に郭4
南下方に帯郭。
 
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南下の帯郭
 
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郭4
郭4の西は堀オ。
 
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堀オ
オは掘り下げを伴う、中の防御線になろう。
 
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やや斜から
 
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北 堀り下げ
掘り下げが弘治期の武田の改修であろうか。
 
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南 掘り下げ
 
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西の郭5から堀オ
 
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郭5
南が低く区画される。
西に堀エ、郭6,7と配される。
 
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堀エ
埋められたのであろうか。
 
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横から
 
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郭6
 
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やや北西に低く郭7
 
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郭7の西に堀ウ
 

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堀ウは山上主要部西最前の防御線になるので、一旦区切り、とくと扱います。
 

 
山上主要部西最前防御構造線
 
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ブログ説明のため高所と土塁をABCDとし、可候峠・大手筋を加筆した。
  堀ウが遮断線になり、郭7が頭上から見張る。
 北西尾根下方は可候峠で、越後から来る軍勢が仕寄る可能性がある。D・堀イ・土塁C・堀ウ北掘り下げで侵入を遮断・塞いでいる。
 南西尾根下方は大手筋で、嶮しい岩尾根だが縫ったルートが通り、こちらも越後からの軍勢が仕寄る可能性がある。堀ア・(イに比し緩い)土塁A・堀ウ南掘り下げで侵入を警戒している。
 大手からはどのように城内入ったのか。遮断封鎖力を高めるには、堀アを乗り越して高所Bに上がり、架橋で郭7に入ったのであろうか。橋を外せば城内には入ることができない。
 越後勢の仕寄に対する厳戒意図を感じるが、横矢、馬出、枡形などの工夫は見られず、武田の弘治ー永禄初頭の普請能力の限界であろうか。
 
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堀ウを南から
城外側対岸は高所B脇に土塁A・Bを伸ばし塞いでいる。
 
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郭7の堀ウ対岸高所B
 
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Bから堀ウ越しに郭7
架橋部であろうか。
 
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B上から北西尾根
下方、可候峠に至り、越後勢が仕寄る可能性がある。
堀イで遮断し、さらにBーCで塞ぎ、さらに堀ウで遮断する。
 
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堀イ北西端
 
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可候峠から堀イに至った越後の兵が見る封鎖
 
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Cを乗り越えた堀ウ
 
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ウ北端
滑り落ちそうな掘り下げ。
この地帯、弘治ー永禄初期の武田の普請であろう。
 
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可候峠に向かう越後勢がみた尼巌城(大室側から)
 
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あそこで真田が待ち構えた
 
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堀ウ南端
 
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Bから南西尾根
大手筋にあたる。
 堀アが掘られているがイに比し緩い。完全遮断という意図ではないのではないか。大手筋は堀アを乗り越してBに上がり、架橋で郭7へ接続か。
回り込みは土塁Aが塞ぐ。
 
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背後
Bから堀ウ越しに郭7。
架橋接続であろうか。
 
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堀アから城内方向
昇降拒絶、遮断意図の堀込みではなく、大手の関門となろう。
 
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回り込みを阻止する土塁A
 

 
大手筋 岩尾根の饗宴
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降れば登らなければならない…
 
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大手筋
緩く降り、郭8へ至る。
大手筋への甘い誘い。
 
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下方に郭8
 
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郭8
削平のみで特段の造作はない。両側面は険しく、尾根筋以外、敵が来る心配がない。
大手を守る兵の屯集地であろう。
 
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尾根筋
唯一、人が通ることができる。ここから郭9まで直線距離で135mの岩尾根…。
岩縫いルートがそのまま要害で、造作は不要であろう。
 
以下岩尾根写真をお楽しみください。
 
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うい
 
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うい
掲載しないが、ところどころ岩のなにやら験を感じるスポットに祭祀の痕跡がある。
 
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うい
 
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岩の上に出ることができる箇所もある
見張り場、あるいは信仰の施設であろう。
 
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見張りよりも敬謙な気持ちになってしまう
 
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鞍骨城
見張りか。
 
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皆神山
信仰か。
 
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ルートに戻ろう
真田に追われた東条氏主従はここを降り逃れたのか。
 
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大手の関門を固める郭9
東(左)脇に観音様。
 
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大手の関門
堀アから降り26分。
 
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観音様
 
   まとめ
 
 尼巌城は、まさに甲越相争う戦国の大舞台の鍵となった城である。東条氏の城というだけでなく、武田勢力圏下の前線としての在番・普請が史料と遺構からみることができる。
 永禄には海津城が築城され、また同4年の第四回川中島下合戦降は甲越の前線は飯山付近のまで北上する。ために普請の様子は弘治年間永禄初期の技術であり、そのあたりは割り引いてみなければならない。
 また南東斜面の竪堀を、天文弘治の真田による仕寄り教訓とした天正10年以降進出した景勝勢力圏下の改修とした。東条氏の復帰を伝えるが、その時代の東条氏の身代による改修は感じなかった。故地に復帰した東条氏のステイタスとしての持ち城として所持したかもしれないが、比高も高く、また分限に見合わない用途でもあり、手は加えられなかったのではないだろうか。
 遠藤先生は上田市西部公民館主催講座「中世城館跡から何がわかるか~城はどのように使われたか」(2018.1.21)において、定納員数目録記載の東条が、霞城である可能性をお話になられていた。
 
 山容と岩から信仰の対象としての山でもあったことであろう。
 
 参考文献 
 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版.pp157-9
 遠藤公洋(2018)「中世城館跡から何がわかるか~城はどのように使われたか」、上田市西部公民館主催講座配布資料
 

 

降れば登らなければならない…
 
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わかっていたはず
 
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 2017年、私は信濃の『岩』に鍛えられた。