尼厳城 標高780.9m,比高415m(1)
城心ついてより憧れていたが山城だが、その山容に怖気づき、避けていた。
平成29年、勇気を奮い、挑んできた。
尼巌城は、古くは東条氏の城であり、東条城とも呼ばれる。天文22年4月9日村上義清の葛尾城が自落すると武田の浸食は前記事平成30年新春前振り掲載した川中島海津城周辺に及ぶ。天文22年には東条氏は一旦は武田の調略にのったようだが(2)、後は越後長尾方であり、武田の意を受けた真田の攻撃を受ける。
武田の浸食過程を小和田先生の論文(3)から要約する。
真田弾正忠・(小山田備中ヵ)宛武田晴信書状(真田家文書『戦国遺文 武田氏編』507号)に
「東条あまかざり城、其後如何何候哉。片時も早く落居候様可被相勤候。(後略)」
とあり、この時点で海津城は築城されておらず、真田が晴信の意を受けて攻略をはかっていた城が尼厳城であることがわかる。 この晴信書状は、黒田基樹、柴辻俊六、長野市史は弘治二年説を、小林計一郎、『更級埴科地方誌』が天文22年説をとっている。
尼厳城の落城時期は特定できないが、東条氏は越後長尾景虎を頼り、越後へ退いた。
弘治二年と比定される西条殿宛晴信書状(西条家文書『戦国遺文 武田家編』580)では、
「東条普請之儀憑入候旨染一翰候処ニ、則被応其意、自身有着城辛労之至、(後略)」
とあり、尼厳城が弘治二年段階でのこの地域の武田の重要拠点であったことがわかる。
弘治四年四月吉日武田家朱印状写(神宮文庫所蔵武田信玄古案『戦国遺文 武田家編』592)に、
東条籠城衆
在城衆真田(幸隆)
小山田備中守(虎満)
佐久郡北方衆
と確認でき(他に柏鉢大岡籠城衆が記載)、尼厳城には、武田勢力圏下の在番配置が行われた。
以後、史料に尼巌城は見えなくなる。
海津城が完成した後は領域支配拠点としての役割は海津城が担ったものと考える。また要害としての機能は永禄4年第四回の川中島合戦以降は上杉のこの地域へまでの侵攻はさほど警戒も要さなく、一旦は休止したと考える。しかし、天正10年の本能寺の変以降に北信に進出した越後上杉景勝勢の情勢としては、真田・北条あるいは徳川に対する備えとして活用でき、あるいはその時期に再度取り立てられたのではないだろうか。
現地説明板では、後、景勝政権下に東条信弘が尼厳城城将として復帰したとされている。
前編では、城歴概要と、搦手である岩沢から主郭を目指し、後編では、主郭から西に普請される山上要害構造と大手ルートを辿ります。
さあ、行きましょう。
岩沢集落奥に奇妙山尼厳山登山者用の駐車スペースが二台分ほど有。
ここから入山するのが尼厳城主郭まで最短ルート。
らんまるさんに教えていただいた。
搦手から目指す
真田が攻めかけたのは搦手からであり、また景勝圏として敵対する方向も搦手側になる。
獣ゲート内、猿の大軍に遭遇するも、私の笛と鈴に私を認知し、遠巻きに移動。襲ってはこなかった。
二か所ほど道が不明瞭になり、また岩場もあるが、思ったほどの苦も無く主郭へ到達できた。
天の岩戸にあたり左へ
岩戸まで到達できれば、道は見える
31分(天岩戸付近滞在9分含む)で南東下方竪堀エリアに至る
現地説設置宮坂武男作図縄張図に加筆
以下記事中の郭番号・堀カナ名は同図に準拠する。構造読み解きは大部分私の独創的な推測です。
桃囲いが南東下方竪堀エリア(4)。
竪堀は下方から登り来る者への備えにもなり、また北の奇妙山との稜線方向への備えにもなる。真田は奇妙山方向から仕寄った(らんまる攻城戦記参照http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-900.html(2018.1.17))。
これは凄い
武田圏でも熊城、真篠城にも畝状空堀はあり、特に熊城の畝状空堀の類型の様にも見える。しかし、二城のそれは、古府中、駿河口が危険な時期の構築と考えている。早くとも天正3年の長篠合戦以降ではないか。天正6年以降の北信濃は、勝頼にとっては無二の同盟者である景勝上杉圏方向であり、このような普請は必要ないであろう。とすると上杉圏構造と考えることもできよう。上杉圏としては弘治2年あるいは天文22年以前、もしくは天正10年以降になる。上杉圏畝状空堀が見られるのは永禄後期と考えているので、天正10年以降北信に進出した景勝勢による構築ということも考えられると思う。警戒方向としても上杉圏に叶っている。
最北は約140mと長大で、北の奇妙山との稜線に対する遮断線にもなる。この最北竪堀上方のところで後述する。
南二本の上端は段になり、付近は石が散乱
段は竪堀を攻め登る敵に対する陣地か
石は投石用、あるいは段補強の石積か。
石積か、集積か
段から竪堀を見下ろす
竪堀の南、南東斜面は段が散在
北を先の竪堀に守られていると捉えることもできる。
ところどころ石構造が見られる。
段は軍勢を容れるため、あるいは物資集積のためのものか、あるいは耕作痕か。
岩壁にあたり、北へ
(地図桃囲い下から上上)
郭11と上方竪堀地帯を横切り北東の岩場を山上主要部へ向かう。
岩壁にあたり、北(右)へ
窄まる箇所があり、城戸地点であろうか
郭11
上方
上方竪堀南二本上端を通る
このあたりも石の集積
投石用か、石積の痕跡か。
ルート下方は竪堀
最北竪堀は、さらに高く上方から降る
この竪堀を横切るということは、横断はルートではないのではないか?
最北竪堀よりも南で主郭下方南東尾根岩壁前に連絡するコースがルートではないか。
下方
先掲の下方竪堀地帯にまで約140m長大に降る。
最北竪堀を横切り、奇妙山との稜線、東尾根に取り付く
登山道として最北竪堀を横断したが、この長大な竪堀は、奇妙山方向から仕寄る敵への遮断線ではないだろうか。技巧的・近代的ということもないが、普請規模が大きく、構築した主体も東条氏よりも大きいと考える。これから辿る東尾根には岩伝いの険しいルートがあるが、天正10年以降に進出した景勝勢が、真田の教訓から緊急的に封鎖し、この長大な最北竪堀とで奇妙山方向からのルートを遮断したのではないだろうか。
東尾根稜線
真田が来たか。
珍しくも人間に遭遇。登山の無事を交歓。
東尾根岩部を上へ
なかなか険しい
城戸と思える箇所もある
私の妄想城戸前
北は回り込み不可能
眺望は絶景
景(政)虎が来る方。
右側の舳先は霞城。
大岩の内を宮坂先生は郭10としている
両側の岩は堅固な城門と成り得る。
郭10と両岩
ようやく山上主要部
堀クで堀切ってある。
ということは、やはり最北竪堀を横断する道は、城道ではないのではないか。
竪堀群と堀クを付加し、岩場関門ルートは封鎖したのではないだろうか。
バイク下馬地点から71分(天の岩戸付近滞在・竪堀徘徊時間を含む)
主郭ー搦手
辿っってきた東尾根からの岩縫いルートは、堀クで遮断されていることから、ルートではない可能性もある。真田の仕寄りによる教訓もあろうか。
主郭南東隅から帯郭へ降り、南東尾根を岩壁付近まで降り、先の上方竪堀南二本上端あたりへ繋がるルートのほうが遮断がない。また帯郭を北回りに郭2に接続するほうが防備は固いが現況藪で確認できなかった。
尼厳城主郭(東から)
北東隅下帯郭
現在は奇妙山へ至る登山道が通るが、先掲の堀クが帯郭北東下を遮断しており、ルートとしては疑問を感じる。
南東隅降り口
搦手虎口導線と考える
この辺り、石積みによる造作がある
虎口導線に伴う構造か。
南東尾根岩壁までの郭段
南東尾根岩壁前の郭
岩壁昇降は不可能だが、左(北東)に降るルートがある。
こちらが東尾根を封鎖した後のルートではないだろうか。
南東岩壁突端
おもえば遠く(高く)へ来たもんだ…。
註
(1)宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版,pp158-9
(2)柴辻俊六(2013)「甲斐武田氏の北信進攻と支配実態」、『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院.p.23
(3)小和田哲夫(2011)「武田信玄の海津築城と山本勘助」、磯貝正義先生追悼論文集刊行会編『戦国大名武田氏と甲斐の中世』、岩田書院,pp94-5
(4) 私は竪堀エリアとしたが、前掲註(1)p.159では「南東斜面に竪堀群のような地形があるがはっきりしない」とし、明確な竪堀としてとられてはいない。
参考サイト らんまる攻城戦記