謙信道4・沼ノ入城(長野県中野市・高山村境) | えいきの修学旅行(令和編)

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 近江小谷戦線で織田勢と対峙した朝倉方中島城を書く予定でしたが、第一義が掲載されたので謙信関連を書きます。 
 2年前(2015)の10月に、らんまるさん、ていぴすさんと修行に踏み込んだ沼ノ入城です。
 たしか、午前に夜交氏山城、午後に沼ノ入城、小曽崖城(時間切れ中止)という修行だったような…。             
 らんまるさんが、一枚だけ写真を公開していましたが、城域全容の公開は、えいきの修学旅行がネット初出でしょう。 信濃恋しい今日この頃、想いを馳せつつ書きました。        
 
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沼ノ入城は、間山から枡形城へと通じる間山峠(古峠)に隣接した稜線上に築かれています。
 弘治三年の第三次川中島合戦では、間山古峠の南下桝形城(山田城)を景虎は攻略しており、川中島へ進軍する景虎の軍勢が越えた峠です。
 
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山田城で使った地図ですが、位置を確認しておきましょう。
 
 中野ー間山ー灰の峠へと続くこのルートは、謙信の軍勢が川中島へ進軍した軍用路と伝わり、謙信道とい呼ばれています。
 第三次川中島合戦の上野原の戦いの比定地は、長野市妻科上野原説が有力で、他に長野市上野(若槻村)、飯山市静間説も力説されている(柴辻 2013,p32)が、謙信道沿い灰野峠北月生城北麓の上野を、上野原の戦いの地とする説がこっそり須坂市で提唱されています。
 
 今回の沼ノ入城(間山峠)の位置は、1石動の館と2山田城(桝形城)の間ですが、記事公開順では謙信道4となります。
 
  謙信道、中野小館、鴨ヶ岳城、真山城、大岩城、雨引城、竹の城、他たくさん…は、長野県北信のページ高山村・須坂市・中野市・小布施町・山ノ内町を参照ください。
 
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 ズームし、おおよその峠、主郭、堀切の位置を宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版に準拠し、書き込みました。 堀切の多さから、間山古峠を越えるルートの重要性と、峠の確保にかける意思、また情勢の厳しさを感じます。
 
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このような
 

 
では、間山古峠から間山峠へ(2枚上写真の左から右へ)、沼ノ入城の普請が施された稜線を辿ります。
 
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間山古峠
ここに至るまで、なかなか大変だったのですが、それは後ほど。
間山古峠の山田城側に立つはていぴすさん。
 
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景虎が乗り越した間山古峠
 
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間山側古道
景虎が越後の軍勢を率い、登ってきた道。
 
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山田城側古道
景虎が越後の軍勢を率い、川中島へ打って出た道。
謙信が数騎で川中島から敗走してきたという伝承もある。
 
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沼ノ入城側から間山古峠
しきりに観察、調査するらんまるさん、ていぴすさん。
このお二人と山へ行くと、自分はいかれていない、まだまだ正常だと安心できる。
 

 
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城へ
 
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古峠から約50mで堀サ、コ、ケの三連堀切
浅間社のある小郭が主郭であろう。
 
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掘コ
コとケの間は小堡塁状にスペースがある。
 
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稜線北
 
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堀ケ
 
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主郭
主郭には浅間社が北向きに祀られている。
宮坂先生は、北側の人々の支配する場所としている。間山側(越後側)の支配を受けるということだ。
 
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浅間社
 間山区史p73には「間山区で管理する浅間社小石祠がある。浅間社は富士山を信仰する社で、伊藤丹後守の家臣志倉氏の勧進した矢代であると伝える(『海野家文書』)。現在は間山の伊藤家と関係の深い社といわれている。」と記されている。
 
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主郭から西尾根
辿ってきた間山古峠方向。
 

 
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主郭から東尾根
間山峠方向。
間山峠まで約260m。
ア~キの堀切7本、クの竪堀が施設されている。
 
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掘キ、カ
 
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掘カ
なかなか強固。
 
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堀カから主郭側
 
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掘オ
振り返る
 
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掘キ、カは二重堀切様
 
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一旦登り
尾根稜線選地の沼ノ入城では、貴重なスペースにみえる。
 
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掘エーウ間は陣地利用可能か
 
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下方に掘ウ
 
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掘ウ
強固な印象。
 
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掘ウ城内側壁面
 
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方に堀イ
 
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掘イ
 
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天正期の横堀陣地構造ではないようだ。
 
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イの先(東)
間山峠直前の堀アまで、約160m堀切はない。
 
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途中の高所
 
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側面に信仰構造
 
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これも、城ではなく、信仰にまつわる構造か
 
少々カット                                              
 
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この先に堀アと間山峠
 
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掘ア
堀アは両端を古道に接している。
 
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間山側古道
 
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間山峠
沼ノ入城側に馬頭観音。
 
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馬頭観音
 間山区史p54には「中山田の上の平氏が文化2年(1805)に建立した。古峠からうつしたものという。」と記されている。
 
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間山峠を南東から
我々は、修行のため大熊峠側から尾根伝いに到達したが、
峠コレクションというサイトによると、林道から間山峠まで歩き易い道があるようだ。
 
 沼ノ入城は、私が追う天正期上杉の近代的普請は見られませんが、馬を操り間山古峠を駆け降りる景虎(政虎か)の背を見た思いがしました。
 

参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版

               柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院
               間山区史編纂委員会編集(2005)『間山区史』、第一企画株式会社
 

 
  ここからは城遺構ではなく、われわれの修行をお楽しみ下さい。
 
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大熊峠付近から修行開始 
 舗装された側からではなく、写真奥方向間山側から、らんまるさんが操るジムニー号にてダートを踏破してきた。大熊峠:http://yahoo.jp/eSsFp4
 
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ここから稜線に取り付く
夜交氏山城よりは易い。
 
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ううう
二人の足の勇躍感。
 
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岩場
 
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畏怖の念
(岩に)
 
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祭祀遺跡であろうか
 
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稜線を行く
古道が乗り越す。
間山古峠か!
 
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ていぴすさんが、地図で確認、違うようだ。
 
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昴が脳裏をよぎる
 
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ていびすさんが、微笑みで誘う
 
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私はホームシック気味
 
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失わないよう、泣きそうになりながら後を追う
 
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藪を抜け、尾根稜線
尾根道って、究めて合理的なルートである。
中世の人々に感心。
 
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沼ノ入城、尾根道遥か…
 
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登って
 
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降りて
 
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間山古峠!
 
 3/26空手大会開催、4/16試験の準備のため、記事更新は数週先になりそうです。
 それまで、先にも貼りました謙信道周辺の城・中野小館、鴨ヶ岳城、真山城、大岩城、雨引城、竹の城など、長野県北信のページ高山村・須坂市・中野市・小布施町・山ノ内町からお楽しみください