岩井城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

    その2では、山上主城域を辿ります。               
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 宮坂武男『信濃の山城と館8』に準拠、概ねの位置を書き込み。 (帯郭、郭4はブログ説明用えいき命名)
郭は、堀ウ、エ、オ、カにより区画され、切岸とともに厳重に区切られ守られている。随所に土塁を備え、戦闘機能が強化されている。
 主郭郭1の南を守る郭2の南から東を囲う堀ウは、前面に土塁を備えた幅広の横堀状で、郭2の南東は自体が竪堀となり、南東・北東は直角隅下付近に竪堀イ・キを放ち、通路の切所としている。
 郭2と1は、堀エにより遮断され、接続していない。郭1へは、郭2-1間堀エを架橋、もしくは、北東帯郭から郭1-3間の堀オ底を通り、郭3へ、郭3から土橋で接続していたと考える。
北西尾根からは、堀ク・カが主城域を区切り、守るが、堀ク土橋を主城域城門とし、堀カから帯郭、堀オへと至るルートがあったものと考える。
 
               堀ウからスタートします。
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郭2南東塁線と堀ウ
その1で見た堀は、尾根斜面を囲う弧状の堀だったが、主城域の堀は様相が異なる。
郭2内、ならびに城外側双方、堀ウに沿って土塁が備わる。
 
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堀ウ南西端(上写真の左側)
南西斜面を竪堀として降り、南尾根から南西斜面への回り込みを阻止。
 
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堀ウは、郭2を囲い守りながら、通路でもあったようだ。
郭2虎口は南東隅付近に設けられ、堀ウと接続している。
その直下付近から竪堀イが派生する。
堀底通行は、藪のため、郭2塁線土塁をを歩き、南東虎口、堀イ、ウ堀底北へ向かいます。
 
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堀ウ底から郭2塁線を見上げる
土塁で高さが増され、堅固に聳える。侵入は無理であろう。(現在は登坂可能)
 
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郭2南西隅から堀ウ南西竪堀部を見る
夢中になって徘徊していると、ときに城の本性に、ハットさせられる。
 
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こに籠っていた者にとっては、胸高鳴る戦国物語ではない。生存を懸けて拠った、戦闘施設である。
 
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郭2 
笹藪…。
写真奥が主郭郭1方向で、土塁は無い。郭1とは堀エで隔たる。
左は南西斜面も土塁無し。右は堀ウが囲い、一部土塁有り。
 二回目のトライでは、笹藪突破を計りましたが、笹の下至近距離から脱兎のごとく走り去る動物に遭遇。笹下を潜りプールの水中を除くように様子を伺ったところ、たくさんの動物の気配を感じたので退却しました。三度目は、郭2土塁線を歩くことで郭2突破を目論む。
 
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南西斜面
直下に北陸新幹線。
 
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 堀ウが囲う南ー東ー北隅までは土塁が備わる。この土塁上を歩き、虎口を確認。南東から北隅までの塁線も虎口部や、一部土塁がない箇所があり、土塁な無いことによる機能があったのだろう。
 
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南東隅付近
土塁の開口は虎口と観た。
 
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郭2南東虎口
 
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郭2南東隅直下、堀ウから竪堀イが派生。
堀イは左(北西)側に土塁が沿う。
 横堀と竪堀の通路組み合わせは、私は武田の構造かと思ったが、遠藤は天正期上杉に普請と考えられる頸城家ノ浦城との類似を指摘している(遠藤.2009 p.47)。
 
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虎口から見ると、直下ではなく、微妙に喰い違う。
竪堀イー堀ウー郭2南東虎口に至る導線は、郭2頭上監視下に、喰い違いの屈曲登坂となる。
 
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堀底降りて堀イ
は土塁が沿う。
堀イは約70m南東に降る。堀アとの連携が意図されたものか、確かめるべく突入を試みた。
 
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しかし止めた
 
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竪堀イ上端から郭2南東虎口を見上げる
頭上郭2の監視下、喰い違い、屈曲し登坂する導線。
 
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郭2南東虎口
 
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郭2東塁線 右下に堀ウ東部
 

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堀ウ東部へ
横堀状で塁線(右)に土塁。
藪だが、土塁上を通行可能。
このへんは印象的には武田の横堀っぽい。
 
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 堀ウは、北端(もうちょい奥)で堀エ、堀キと接続する。堀エは郭1-2を隔て区切り、堀キは北東に竪堀となり降る。
このあたりの郭2は土塁が切れる箇所がある。
 
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郭2東塁線の土塁の切れ
意図があったことと思うが、運用意図はわからない。
 
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郭2北東隅
隅には土塁があるが、脇は土塁がない。
 
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郭2北東隅下
堀ウ、エ、キ、主郭北東下帯郭が交錯する。
堀エは郭1と郭2を隔て、区切る。
 
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郭2北東隅から堀エこしに郭1
郭1は郭2側に土塁を備え、郭1内の見通しは悪い。
 後掲するが、郭2は郭1側に土塁を備えておらず、郭1から郭2は、見通し可能で、郭2は郭1の監視下に在る。
 
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郭2北西部から郭1
 郭1の南西隅は土塁がない。主郭虎口は、郭3側の土橋口と考えるが、あるいは南西隅も、ここから堀エを架橋、もしくは堀エ底と接続する虎口であったか。
 

 
3枚上の写真、堀エ竪堀キ交錯部に戻り、帯郭から郭1へ進みます。
 
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その前に竪堀キ
左北西)側に土が沿う。
 
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郭2北東隅下 
堀ウ、エ、キ、主郭北東下帯郭の交錯部(四枚上の写真再掲)
 
 竪堀キ土塁の上端部は、堀エに掛かり、堀エから帯郭への通行部を狭めている。ここは、郭2・郭1の監視下にある。   土塁上端は堀エに掛かり、通行部を狭めている。
 
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郭2のみならず、郭1北東隅も頭上監視
郭Ⅰ北東隅は土塁を備える。
郭1からの交錯部俯瞰写真、後掲します。
 
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このように竪堀キ上端は、堀エに掛かる
帯郭へ進みましょう。
 
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帯郭藪部を抜け、堀オ底に入る
帯郭は郭3北の堀カまで伸びる。
右下方にその1で紹介した郭4。
 
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スロープ状に堀オ
奥に郭1(左)と郭3(右)を繋ぐ土橋。
郭3は土塁が盛り、堀オ右の土塁伝いに入ることはできなそう。
 
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郭1と郭3を繋ぐ土橋
 堀が深ければ、土橋には揚がれず、土橋が堀底を進んできた敵の進行を塞ぐことになるし、昇降可能な構造であれば、塞がないまでも一旦停止にはなるであろう。
 右は馬出機能も考えられそうな郭3で、土塁の盛られていない処から郭3にあがり、土橋で郭1へとルートを設定していたと考える。
 
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左側面頭上は郭1が監視。
郭1のこの(北西)面は土塁を備える。
土橋で停止した侵入者は、側面頭上から射・刺殺される。
そう、ここは最終抵抗ゾーンで、城兵は死に物狂いに侵入者に出血を強いるであろう。
 
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右の郭3
堀オから郭3に入るとすれば、その際、郭1から背を撃たれる。
郭1から郭3の監視状況は後掲。
 
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土橋の南西は、横堀から竪堀となり降る。
 
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郭3から土橋ー坂通路ー土塁の切れた郭1北西隅への接続
 
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補助書き込み
 
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郭1北東塁線
土塁に説明板が建つ。
 
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「城といってもっけわしい山にからぼりをめぐらした簡単なもので…」(説明板)
人によって評価は異なる。
 
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北東塁線土塁上から郭1
右(南西)斜面側には土塁はないが、堀ウに沿って(一部欠如)土塁が備わる。
説明板の情報と、実物から得る情報と、私の妄想と。
評価するのはあなた。
 
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郭1南西斜面
 
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先の堀ウ・竪堀キ・堀エ・帯郭との交錯部
竪堀キに沿う土塁上端が、堀エに掛かり、通行可能部を狭めている。そこは、郭1・郭2の監視下にある。
 
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素の情報
 
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これも先述の郭1南西隅から郭2
郭2は郭1側に土塁は無く、
郭1の完全見通し監視下にある。
堀エ南西端は竪堀となる。
 
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堀エ南西端竪堀部
傾斜が急なので、掘り下げは郭2端から20m程度か。
宮坂図では郭1側(右)に竪土塁を描いている。
 

               
郭1から北西尾根方向へ
 
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 郭3を配し、その先(北西)は堀カ、堀クで主城域を区切り守る。帯郭と堀カ底は通路として接続し、北西尾根堀ク土橋から北西尾根その1で紹介した斜面を弧状に囲う堀ケ、コの尾根斜面防御ゾーンに至る。
 郭3は郭1にの完全監視下にある。堀オから郭3に入る敵は、郭1に背を晒す。また堀オ内は、土橋で塞がれた枡形様の区画になり、郭3・郭1から挟撃されることになる。
 
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郭3から郭1
 
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郭3北西端
堀カ、三日月状小郭挟んで堀クが主城域を区切り守る。
郭3と堀カとは昇降通行無理であろう。
堀カ左(南西端)は畝を設け二重竪堀となる。右(北東)は前面に土塁を備え、帯郭と接続する通路と観る。
 
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堀オ南西端
畝を挟んだ二重竪堀構造
 
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堀カ北東部
帯郭と連絡する通路と観る。
前面に土塁を備えている。
 
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三日月状小郭
帯郭ー堀カと連絡するルートは三日月状小郭を経て、堀ク土橋ー北西尾根斜面ゾーンへと繋がる。
 
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堀ク土橋
土橋の先は、その1で紹介した斜面を弧状に囲う堀ケ、コの尾根斜面防御ゾーン。
 
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土橋左(南西)堀ク
 
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土橋右(北東)堀ク
 
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土橋右堀クもう一枚
堀クは約90mの長さに及ぶ。
 
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土橋先から振り返り、主城域をみる
ここが主城域の北西城門にあたるところであろう。
 
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素の姿
 岩井城は「城といってもっけわしい山にからぼりをめぐらした簡単なもので…」(主郭設置説明板)といった認識で藪に埋もれているには惜しい遺構である。
埋もれている故、破壊を免れたともいえるが…。
 
 まとめ
 
 実際に現地に踏み込む前の地理と縄張図・文献による検討では、遺構は、ほぼ武田勢力下の市河氏による維持期の姿であろうと考えていた。しかし、実見の後は、天正期(景勝期)上杉の改修を大きく感じた。
 岩井城記事作成に先立って、謙信期は上杉勢力下にあったが謙信死後に武田の勢力下に移った信濃川左岸上境城を書いた。そこで上境城の構造に武田の改修を見出し、それを信玄が成し得なかった信濃全域の領国化を果たした勝頼が示した信濃経営の意欲と観た。
 この岩井城は、謙信期も武田勢力下であった信濃川右岸にある。
 天正10年3月に勝頼が滅び、本能寺の変を経て、こんどは景勝がこの地に進出した。滅亡の淵にあった景勝は、謙信期には武田の勢力下にあった飯山城の対岸千曲川右岸地域をも手中に入れる運命の変転に遭遇した。私は、謙信が成し得なかった北信濃の領有を確固とすべく城の改修に力をいれた景勝の心中を、岩井城の遺構に観た思いがした。

 

参考文献  宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
        遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」, 『市誌研究ながの』、第16号
 
 引用・参考箇所以外のルート設定、構造の読み解きは、えいきの私見です。
 
 編集後記
      
千曲川に架かる綱切橋と岩井城夕景(11月・二度目の退却時に撮影)
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 11月ニ度目のアタックは、藪と動物で断念。関田峠・富倉峠の凍結に怯え後ろ髪をひかれながらも必ずまた来るぞと誓いながら退却。藪緩いであろう3月、仕事後に飯山に急行、前泊。翌朝出勤前の氷点下の早朝に三度目のアタックを敢行、撮影に成功し、本記事を作成した。
 
 囲い込み構造と前面に土塁を備えた浅い堀は、遠藤先生の論文をもとに天正期上杉の改修・増築とした。現時点では、わたしもそのように認識し、越後頸城地方から北信にかけての城においてみるその構造は、景勝期の上杉の動向と関連して考えている。
 しかし、一抹の躊躇いもある。
 2013年に書いた城だが、武田勢力下南信伊那の塩田城においても小さいがトライアングルに斜面を囲う堀があった。塩田城、髻山城のトライアングル堀などは、遠藤先生の論文に出会う前は、岩櫃城類似を感じ、武田の構造と想定していた。また、らんまるさんからは、土塁を備えた浅い堀が、旧高梨領域内の山城・稜線・尾根のいたるところに見いだすことができると指摘されている。
 北信にみるこれら天正期上杉の構築と考えている構造が、もしやすると天正10年の景勝進出以前にさかのぼるの可能性もあるのではないか、という懸念が、一抹の躊躇いとして私のそう多くない後ろ髪を引いている。
 
 さらに山を城を訪ね歩き、検討を重ねてみたい。
 
 このように職業とは全く関係の無い山城への欲望が湧いてくる私は、もしかしたら変態なのではないかと自身で心配になっている。