岩井城1(長野県中野市岩井) | えいきの修学旅行(令和編)

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岩井城(南西から)
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 千曲川右岸、中野と木島平との境の山道と、千曲川安田の渡しを扼す山上にある。
南西麓中段には月岡岩井氏館があり、岩井氏の城であったと考えられる。
 
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宮坂武男『信濃の山城と館8』によると、月岡地蔵堂から月岡遺跡一帯を根小屋と推定している。
月岡は、築岡・付岡と同意で、城付属の施設があったことが想定できる。
背後、100m登ると岩井城南の鞍部に至る。
 
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月岡は台地上で、千曲川筋を一望できる。
 
  弘治年間、武田の勢威が北信に及び高梨氏が中野から飯山に退くと、このあたりは永禄期には武田の勢力下に入る。
  志村平治『信濃岩井一族岩井備中守信能』では、岩井城には岩井入道がいたが、永禄2年景虎上洛中の武田の攻勢により陥落、岩井入道は滅んだとしている(志村 2009,pp.22-3)。
                
飯山城からみる岩井城
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岩井城は越後上杉氏の最重要拠点である飯山城の千曲川対岸直線距離約2.2kmの至近に位置する。
 岩井城に武田の兵が入って以降は、甲越双方の兵が目視し合える双方最前線の城郭になる。
 景虎自身も眼前に見たであろう。また岩井城の兵も、景虎が信濃に出馬、飯山城に在城すれば、景虎本人の勇姿を見たであろう。
  しかし謙信が、千曲川を挟むとはいえ飯山城の目前にこの城の存在を許したか疑問ではある。
 綱切橋の名は川中島から退却してきた謙信が、ここ安田の渡しで千曲川を渡河の後、追撃を絶つため渡しの綱を切ったという伝承に由来する。
 岩井城を武田が押えている状況下では、千曲川右岸(海津城ー岩井城側)を落ちてきて、岩井城下安田の渡しで千曲川を渡河するのは不可能であろう。伝承が事実とすれば、岩井城が武田に押えられていない年代の川中島合戦、もしくは進軍にあたり岩井城を制圧の後に川中島に進軍したのであろう。
 
ぐだぐだと書いてしまう私の悪い習性を自覚し、城へ行きましょう。 
 
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北東から見ています。
 
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ズームし、郭・堀名を宮坂武男『信濃の山城と館8』に準拠、概ねの位置に書き込みます。
(帯郭、郭4はブログ説明用えいき命名)
 南外の堀ア、北西外の堀ケ・コは、尾根斜面を囲い込む構造の前面に土塁を備えた弧状の堀で、本能寺の変後に北信に進出した景勝勢による天正期上杉の普請と考える。(1)
 堀アは竪堀イと連携した構造と考えると、斜面を鎌型に囲い込む構造とみることもできるのではないだろうか。 
 岩井城は、岩井氏により築かれた城が、武田勢の浸透により岩井氏が退去後、永禄・元亀・天正10年まで武田(市河氏)の城として手が加えられ、武田滅亡・本能寺の変を経て、越後上杉景勝の進出過程においても改修されたことが考えられる。
 その1では、南尾根、北西尾根の斜面を囲う堀の様子、主城域の飯山城側北下方か郭4を中心に紹介します。
 
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南の鞍部付近まで林道があります。
 
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南尾根道、堀アラインを下方から
左に竪堀、ちょい手前右に喰い違い、前面に土塁を備えた横堀
 
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堀ア南西竪堀部
 
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前面の土塁を備えた堀ア横堀部(よくわからん)
岩井城、藪・笹藪で遺構観察が可能な箇所・季節は限られます。
 
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城内側から堀ア
弧状に斜面を囲う。
前面に土塁を備え、城内側上には犬走リ状の段が設けられている。
左の北東方向で上方から降りてくる竪堀イと連携した構造であれば、鎌型に斜面を囲い込む構造ともとれる。竪堀イはその2で紹介。
 
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斜から
尾根斜面を囲い込むような弧状の構築。
 
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堀アラインよりも上方約30mあたりから笹曲輪がひしめきだす。
 
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笹曲輪がひしめき始める路脇に礎石のような石
 
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城戸遺構ではないだろうか
 私は、笹曲輪がひしめきだすあたりが武田時代の城域限で、先に見た下方約30ラインの堀アは、天正期景勝支配下に増築された構造と考える。
 
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その笹曲輪達、笹藪でいちいち調べることができません。月生城あたりのイメージが符合するのではないか。
笹曲輪の上方に主城域南を区切る堀ウ。
 
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かろうじて笹曲輪の一段
 
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上方に堀ウ
 
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主城域を区切り、守る堀は、これまた様相が異なり厳しさを増す。
 
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堀ウ
しかし堀ウはその1のテーマに非ず。
その2で紹介します。
 
北西尾根へ。
 

                 
北西尾根斜面 
 
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主城域北西を区切る堀クより、北西尾根下方斜面
下方約60mに犬走り状の段と堀ケが弧状に囲うように設けられている。
 
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城内側犬走り状の段の下に、堀ケ
 堀ケは両端を折り、竪堀とし、側面への移動を阻止している。折れた竪堀の城内側に、さらにもう一本竪堀を沿え、厳重に備えている。
 
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堀ケ 尾根稜線に土橋
 
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堀ケ土橋から南
前面に土塁を備え、囲い込み企画と、斜面下方に対する射撃陣地か。
 
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南端
折れ、竪堀となり南斜面に降る。
城内側(左)にもう一本竪堀を沿え、厳重に回り込みを阻止。
 
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城内側もう一本の竪堀
 
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堀ケの土橋より北東部
写真奥で左(北)に折れ、竪堀となる。この写真も竪堀のように見えるが、前面に土塁を備えた横堀状です。
また、途中で放射される竪堀はない。
 
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折れ、竪堀となるところ
 
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クィッ
 
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堀ケ北端竪堀部
城内側(右)にもう一本竪堀が沿う。
 
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堀ケ北端城内側に沿う竪堀
 
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回り込みを阻止する堀ケ竪堀部の補助的な用途と思うが、補助的な構築ではなく長さ40mを越え降る。
 
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堀ケ北下方から
 
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堀ケ北折れ部を北下方から
 

                 
北西尾根斜面堀コへ
 
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堀ケ土橋を渡り、北西尾根斜面下方
下方約60mラインでもう一重・堀コが斜面を囲う。
 
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堀コ
中央付近は現状では堀というより犬走り状の段だが、弧状に囲う様子は明瞭。
南寄りに、上方堀ケ土橋から路が降り、城門様に下方に通る。
 
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南寄りに上方堀ケ土橋から降る路が通る城門地点
このあたりは犬走り状の段というより、前面に土塁を備えた横堀形状で囲う様子がわかる。
 
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城門下方北西尾根
宮坂先生によると190m下に降ると10基の旗塚が並ぶという。
 
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堀コ城門を下方から
両翼に塁線を備える
 
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城門
 
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堀コ城門より南
藪だが、南端は右(南西)に折れ竪堀(短い)となり区切られる。
 
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南端
折れ、竪堀として区切る。
 この横堀端の、折れ竪堀で区切る処理は、天正期の上杉のハイテク構造であろう。天正14年、新発田重家が終焉の地とする浦城においても見ることができる。
 
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堀コ城門より北
 
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中央付近は犬走状
中央やや北寄りに短い竪堀一本
 
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畝型阻塞か?とも思ったが、一基であり、竪堀造作に伴うものであろう。
 
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宮坂図には描かれいないが、この短い竪堀で堀コが段違いに二段なっているのではないだろうか。
 
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 下方に違った段(横堀)の端から竪堀を降らせ、北端(堀コは北に数十cm伸び、厳密には端ではない)を区切っている。
 
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堀コ北端竪堀
 

              
主城域北下方 郭4
 
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北東帯郭の北下方、飯山城に相対する位置に一郭ある。
宮坂先生は番号を記していないが、ブログ説明用に郭4とした。
 
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宮坂先生の実測によると23×15とある。主城域の郭には土塁があるが、この郭にはない。
写真中央上の突出が北隅で、方角としては飯山城方向。
 北隅辺縁というか飯山城に向かった斜面に、石がごろごろしている。宮坂図には描かれていないので、宮坂先生が気付かれなかったのか、調査後に露出したのか、あるいは誰かが設置したのか。
 
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落葉の下、全部石です。
 
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北隅下
 
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自然石だろうか…
 
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石垣ではないか
 
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石垣であれば、飯山城からよく見えたであろう。
郭下の壁面維持も目的かもしれないが、武田の勢威を示すには格好であったと思う。
 
註:(1)①遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」, 『市誌研究ながの』、第16号、p47 
     ② (2011)「新潟県上・中越地域から長野県北部地域における織豊期の城館遺構~空間を囲む施設と上杉氏の「へい」からみえるもの~」,中世城郭研究、第25号、p277
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
              志村平治(2009)『信濃岩井一族岩井備中守信能』、合資会社歴研しむら