浦城 序(新潟県新発田市浦) | えいきの修学旅行(令和編)

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 記事がまた長野県だらけになってしまっているので、新潟県をいきましょう。               

浦城
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『甲信越の名城を歩く』の中で、水澤幸一さんが新発田重家終焉の地とした。
 
 新発田重家は天正9年、御館の乱後の景勝の政権運営への不満から景勝に反旗を翻し、天正15年の滅亡まで、6年にもわたり己が本領(他領にも進駐)にて反抗・割拠した。
 
 謙信存命中であるが、天正3年軍役帳から、新発田の勢力を量ってみる。
 
 新発田尾張守(長敦) 鑓135,手明20,鉄砲10,大小旗12,馬上17,計194
 五十公野右衛門尉(宗信)鑓80,手明15,鉄砲10,大小旗8,馬上11,計124
 加地彦次郎(春綱)鑓108,手明15,鉄砲10,大小旗10,馬上15,計158
 
 佐々木一族を合わせる(竹俣氏は新発田重家の乱に際し、重家には与しなかったので除いた)と、476名である。
 
 天正3年軍役における景勝(御中将)の軍勢は、鑓250,手明40,鉄砲20,大小旗25,馬上40,計375名であり、また軍役頂に記された謙信軍将士の合計は、5514名である。
新発田衆は、謙信軍中の大勢力であり、かつ御中将景勝の軍勢を上回る勢力であった。
 
 重家の新発田氏は、鎌倉以来の佐々木源氏の名流であり、景勝の上田長尾などよりも格上の意識があったのだろう。重家の反抗は、越後侵攻を目論む織田、蘆名とも連携した景勝政権からの独立であり、景勝に代わって越後の国主にも成り得る反抗であった。天正10年には通じていた信長が本能寺に斃れるが、その後も5年にわたり抗戦、独立割拠を保つ。秀吉は、自家についた景勝の敵である重家に、赦免、北条攻めの従軍、本領保全、さらには大名への取り立ても考えていたふしがある(新発田市史 p.164)。
 
 新発田重家の反抗は、それほどの反乱であった。
 
 新発田重家の本拠は新発田城とされ、最終戦闘も新発田城における戦闘で、重家生害の地も新発田城と伝わる。
 水澤さんの説では、その新発田城とは、現新発田城ではなく、この浦城を指すというわけだ。
 
 これは私は知らなかった。
 昨年水澤さんにお会いした時、『甲信越の名城を歩く』の話はしたが、新発田重家・浦城に関してはまったく話題にならなかった。発表まで黙されていたのか、あるいは私が無知だっただけか…。
 (初出は水澤幸一(2009)「越後加地荘の城館(下)」、『新潟考古』、第20号、pp149-160においてでした:6/23追記)     
天正15年、新発田重家の乱最終局面
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 天正15年9月以降、景勝方の攻勢によって、次々と新発田方の城が落とされ、重家が浦城に追い込まれていく。
 赤谷城は会津蘆名との連絡には欠かせない城だが、ここが落とされたことによって、蘆名との連絡・補給が断たれた。
 放生橋・八幡は、先立って天正10年・11年に、史料に残る新発田方と景勝方の会戦が行われた地であり、とも浦城に近接している。
 放生橋の戦いは、天正10年9月25日、浦城と五十公野城の間に陣を張った景勝勢の退却に乗じ、新発田勢がこれを追撃し起こった会戦である。景勝方は上野九兵衛、菅名但馬守、水原満家など部隊長級の名のある侍を多数討ち捕られ、景勝自身も危機に瀕した。たしかに新発田城からでは離れすぎである。八幡の戦いは、天正11年8月18日、景勝が赤谷城に兵を動かしたところに新発田勢が攻撃を仕掛けた会戦で、これは景勝方が勝利したようだ。
 水澤さんは「両会戦の鍵となる城は位置的にみて浦城である」としている。
 
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法正橋信号
 
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法正橋信号付近から浦城
 
 戦局の流れからしても、新発田重家が拠った本城が浦城であることが真実味を帯びてくる。
 
 浦城が新発田重家終焉の地であれば、まさに天正期越後で行われた熾烈な戦闘の場であり、景勝に敵対した戦闘ではあるが天正期越後のレアな城ということになる。
        
皆さんの気を惹こうと、ほんのさわりのダイジェスト
 
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横堀
塹壕状射撃陣地か。
 
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織豊とは別系(天正期上杉)の桝形虎口
 
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畝状竪堀
横堀の区切りとして設けられている。
 
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壁状の遮断堀切
 
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前面に土塁を伴った浅い堀
 
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おっと序編のダイジェストでした
これぐらいにしておきましょう。
     
浦城縄張図(新発田市史より引用)
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 この縄張図には描かれていない構造も実見してきました。もっと厳重、というか、迫真の天正期の戦闘構造に唸らされました。
水澤さんは「新発田領中、最大最強の城ということができる」としています。
 天正の越後において、名門佐々木源氏が景勝に抗した城の様子、前後編の二編にわたりこってり紹介します。
 前編は、北西の谷から本城へのルートと本城の様子を、後編では尾根の処理と、北西・西尾根を別郭陣地と見立てて紹介します。ご期待ください。
 
参考文献 福原圭一・水澤幸一編(2016)『甲信越の名城を歩く 新潟編』、吉川弘文館
       新発田市史