山口城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

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 山口城2では、山口本城の中枢である郭2・郭1に、南から堀イを越えて入ります。
 その後で、平成24年6月には藪で踏み込めなかった北東尾根郭4と北西尾根を辿ります。
 北西尾根は鋭い四重堀切が遮断します。
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郭3´から堀イ越しに郭2
 現在、土橋から郭2南東隅枡形様区画に接続するが、らんまるは堀イから郭2西下の帯郭に入るルートを唱えた(らんまる 2015)。
 
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土橋右(東)堀イ
 
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現接続
 
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枡形様区画
 
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郭2内から枡形様区画
 城遺構と観れば、天正期上杉の構造にルートに織豊とは異なる枡形様区画を配するケースがあり、天正10年以降、景勝勢によって改修され設けられた可能性もあるのではないだろうか。
 美しいが、壁は低く強固な防御力を持っているようには見えない。
 
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越中枡形城の枡形様区画
 
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頸城直嶺城倉刈門
 
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頸城雁海城城枡形様区画
 
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郭2南東隅枡形様区画から堀イ
イは土塁を胸壁とした陣地か
 
 直進し堀イを渡り郭2南東隅枡形様区画に入る導線は、横矢が掛るわけでもなく、ルートとしては防御力がさほど高いとはいえない。やはり、ここはらんまるが提唱する如く、郭2からの頭上監視を受ける西帯郭経由が防御力を備えた城ルートとして合理的であろう。
 
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堀イ西から郭2西下帯郭へ入る接続
 
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郭2西下の帯郭
右頭上郭2から監視を受けながら通る。
 
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帯郭下方
 
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郭2の西下帯郭北端で、折れ戻り登り、郭2に入る
 
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折れ戻り登り郭2北西虎口
虎口入ると、左に土塁がある。土塁が邪魔なような気もするが、虎口は左上から郭1南西部が監視している。
 
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虎口入ると左側面頭上から郭1南西部が監視している。
郭1文字の左に土塁が低い箇所があり、あそこから侵入者を監視、狙撃したか。
しかし、土塁が邪魔なような…。郭1下帯郭に城兵を隠していくための構造か。
 
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書き込みなし
 
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北西虎口から郭2
郭2は郭1を主郭とする山口本城の中枢になり、軍勢収容という機能で付加されたものではないと考える。
対極に堀イから直接接続する枡形様区画がある。
東に石積による列があり、やや低く郭内を区画している。
 
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書き込みなし
 
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石積列
 
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郭2を東に低く長方形に区画している
城遺構ではなく、地元の方が積んだそうです(2020.6追記)。
 
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区画するためだけの造作だろうか
 
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東下方から
東に威容を示す、というほどのものでもないようだが。
 
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郭2の北に高く、本城主郭である郭1
土塁で土橋に至る通路を限定し、直線だが坂虎口で郭1に接続する。
 

                             
郭1へ
 
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郭2と土塁で隔て、右(東)に堀ウ、左は郭1下を南から西、北、東面途中まで巻く帯郭。
 
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堀ウ
 
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帯郭(後掲します)
 
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坂虎口を郭1へ
 
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石積で補強された通路
直線が気になるが、あるいは、旧来の外様衆の持城としては、こうだったのか。
 
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うぃ、山口本城郭1
 
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西面を除き、囲郭されている。
 
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郭2に向かった面の土塁は分厚く、重厚に構築されている。
 南西部は、先に見た堀イ西から郭2西下帯郭を経て郭2に接続する地点を監視できる。坂虎口西に櫓でも揚げていたらさぞ強固に監視できたであろう。また土塁を一部低くしている。そこから郭2侵入を図る者を狙撃したのではないだろうか。
 
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坂虎口上から郭2
城主が下知する気分。
 
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 南西部から、郭郭2西下帯郭から郭2に接続する地点を見る。土塁が邪魔な気がするが、侵入者を監視、狙撃できる。土塁は帯郭に武者を隠すためのものか。
 
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書き込みなし
 
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東面から北面も土塁が囲うが、南面に比し低い。
塀で囲う意図か。
 
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東面は傾斜がきつく、寄せ来るリスクは低いのだろう。
 
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 北東隅も土塁は低いが、北東斜面から寄せ来るリスクがあるためか、坂虎口の西から北面を巡る帯郭が北東隅下にまで配されている。
山腹にその1で紹介した二十塁線防御ラインを構え備えている。
 
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北東隅下帯郭
 帯郭下方に堀エ、さらに郭4(後掲)、さらに下方山腹にその1で紹介した二重塁線防御構造が構えられている。
 
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北面は低い土塁があるが、西面には無い。
 理由があって土塁を設けていないのであろうが、帯郭への昇降という意図であれば昇降口のみ開ければいいわけで、それだけではいであろう。下の帯郭とセットで北西から西に備える構造か。備えるなら土塁が在ったほうが防御力が高いと思うが、土塁のない意図がいまいち読み解けない。
 
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北西隅下帯郭
 帯郭下の切岸は北西尾根を遮断する四重堀切の堀オと一体になった壁面で、中枢を守る区切りになるっている。
 
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西下帯郭
土塁がない郭Ⅰ西面下になる。
一部石積で壁面を構築してある。
四重堀切のある北西尾根に向かい導線がある。北西尾根四重堀切は、ラストにとっておきます。
 

                           
まず北東尾根
 
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帯郭下方に堀エ
 その下方に郭4がるが、藪が酷く極めて困難。あえて行かなくてもいいと思います。
あおれんじゃあ・らんまる一行は、ここから郭4を経て北東中腹の二重塁線構造に降りて行ったそうです。
動物すら避けそうなルートです。
 
 私は、もっと艱難辛苦を選びました。その1で紹介しましたが、二重塁線構造を目指し、あとから考えれば宮坂図等高線を見ても最も傾斜がきつい急傾斜を110m直登し、途中で間違いを悟りましたが、降りることも不可能で、郭4に至りました。
             
では下から
 
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郭4下方の三日月状の帯郭
 
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もう一段上のコ状の帯郭
段差上が郭4。
 
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郭4
藪で郭4内・主郭へは進めません。
 また主郭から降りてくるのも、不可能に近いと思います。不可能を可能にするのは、お二方の極めて高い能力と本能故でしょう。
 
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  で、主郭に登るのも無理で、来た急斜面を降り戻るのも不可能で、息絶え絶え、レンズが霞む二重塁線構造方向へ木に掴まりながらトラバース下降を決行。
  艱難辛苦の末、二重塁線構造に至ることができましたが、進退窮まる可能性もある危険な行動でした。みなさんはなさらないほうが無難です。
 

           
はラスト、北西尾根の四重堀切へ
 
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郭Ⅰの土塁のない西面から西下帯郭
西下帯郭から斜めに降りる。
 
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夏はどうか。
私、6月は踏み込みませんでした。
 
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北西帯郭下方、北西尾根付け根に堀切オ
城内側、郭1北西下帯郭から堀オまでの切岸が鋭く高く、城壁様に際立つ。
 
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堀切オ
北西尾根への掘り込みはそれほどでもないが、城内側は城壁様。
 
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堀切オ底
 
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北西、さらに尾根を、堀カ、キ、クで執拗に遮断する。
これら堀切、薬研だが鋭さが異様な感がある。
 
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堀切カ
 
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鋭さが異様
越後、北信では見慣れない…。
いや、一城ある。
 
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カ堀底
改めて、鋭さが異様である。
 
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南西端、竪堀状
 
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西端
 
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対岸、登ります。
 
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カ―キ間の北西尾根上
右(北東)に、竪堀
 
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北東斜面の竪堀
                 
尾根上に戻ります
 
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堀切キ
 
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キも鋭い
 
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繰り返し書くが、この鋭さ、私が知る上杉城郭では、此処の他に一城を除き異様である。
 
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キーク間の北西尾根上
ここにも右に竪堀一本
 
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北東斜面竪堀
                       
尾根上
 
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北西尾根最外の堀切ク
 
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堀切ク
 
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北西尾根最外の堀切
 
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端は丁寧な竪堀造作
 
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この鋭い堀切が四重に設けられているのは、山口城の北西尾根である。
山口城の北西に位地するのは越後国境富倉口である。また、その1で紹介した二重塁線構造が儲けらているのは北東の山腹である。二重涙腺構造は、天正期景勝勢が飯山城・信濃に向かって構築したと考えていいだろう。では四重堀切は、何に備えているのか。越後から富倉口を越えてくる押し寄せてくる軍勢に備えていると考えるのが妥当ではないだろうか。
山口城は、謙信・景勝近くに仕えた岩井氏の城とされ、城の役割と、岩井氏と越後上杉中枢との人間的関係・距離は一致する。その城が越後側に警戒線を構築するということも考えにくいのではないだろうか。
 
 富倉城は、その立地と構造から、越後上杉が本国越後と飯山城を繋ぐ城として利用したものと考える。備えは信濃に向かって構えられ、富倉城を書いた際、越後側には備えていないと読み解いた。
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富倉城概念図
 飯山城以北は天正6年3月の謙信の死まで、越後上杉の支配するところであった。
 謙信の死により、上杉領は景勝、景虎方に分かれ争う御館の乱へと突入する。飯山城主桃井義孝は、御館に入り景虎方に付いた(上越市史)。岩井氏も景虎方と景勝方に分かれた。景勝と勝頼の同盟が成ると、景虎方は劣勢となり、景虎は天正7年には信越国境に近い鮫ヶ尾城に追い詰められ自害することになる。景勝と勝頼の同盟の条件に謙信以来の飯山領の武田への割譲があり、飯山城以北も含んだ北信濃は武田領となった。
 
 勝頼は越後との同盟により、迫る織田徳川北条に対する防御に国力を挙げて専念したことと考えるが、天正8年には8月17日には松鷂軒に三十三ヶ郷に飯山城の普請を命じている(笹本 2011,pp.179-181)。
 
 勝頼は、同盟国越後との境、北信地域おいても、領国支配を確立させるため、城の普請を行っていた。
 山口城北西尾根の四重堀切は、御館の乱の争乱あるいは武田支配下において、増強された可能性もあるのではないだろうか。
 横道にそれるが、仙当城なども、この時期に武田支配のもと市河氏によって築かれたと思えるようになってきた。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
       上越市史別編2
       笹本正治(2011)『武田勝頼―日本にかくれなき弓取ー』、ミネルヴァ書房
 
 北西尾根の四重堀切の鋭さを上杉城郭としては異様としつつ、一城、その鋭さが類似する城があると書いた。
 その城とは、鮫ヶ尾城である。そして、鮫ヶ尾城においても、その鋭い遮断堀切が構えられているのは、山口城と同様に主郭の北西(北北西)方向である。
 
  次記事で鮫ヶ尾城の様子を紹介しましょう。
 
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