野尻新城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

郭5・4は、尾根先部から囲うように、広いスペースを確保するように設けられています。
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 その2では、西の大手城門と推定される出入口Dから郭5に入り、郭4の様子を紹介します。そして南回りで堀切ウを越え、中枢要害部へと至ルートを辿ります。
 
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野尻城の築かれている小丘の西舳先を南から
 
 
 
 
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堀アが出現
横堀めがけて登ります。
 
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舳先を囲うように横堀ア
 
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横堀ア舳先に出入口構造Dが設けられている
 
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大手の城門、出入口構造D
横堀アを防衛線とし、横堀アの前面左部(北)にも土塁を備える。
城門は左右L型土塁で櫓台様堡塁を区画し、土の楼門状に頑強な防御と威容を誇る。
 
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横堀ア前面北ラインには土塁を備える
射撃塹壕陣地で堀ア内土塁に拠った城兵との二重陣地か。
 
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出入口D
 
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D北(城内に向かって左)L型土塁
 
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北側
L土塁によって小スペースが区画され、堡塁状(宮坂郭6)。
櫓台、あるいは城門を守る堡塁であったと考える。
 
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堀アは北には約20mほどで終わり、北斜面までは囲い込んでいない。
傾斜がきつく不要ということか。
 
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D南(城内に向かって右)L型土塁
 
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 南はL型土塁内の区画のみならず、堀ア塁線内に武者走りが沿い、堀アと共に武者走りが南斜面を約50m囲う。
 
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大手城門内
上部は郭5。
北(左)は急斜面、西から南にかけて堀アに囲われた区画。
別段の造作はなく、広いスペース確保できている。
信濃へ、あるいは越後へ移動する軍勢を収容するスペースか。
 
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郭5の奥は郭4になるが、堀イによって区画されている。
堀イは前面(郭5側)、後面(郭4側)に土塁を備える。ルートは右(南)だが、前面土塁は左(北)が無い。
 
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中央付近郭5から堀イ越しに郭4
北には前面の土塁は無い。
 
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堀イ北
 
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堀イ中央付近
 
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堀イ南
乗り越すルートがある
 
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堀イ南端
 このあたりになると比高もあり、また野尻湖側は道が通るとはいえ野尻湖が迫り、大軍は展開できないだろう。下方の道は掌握はできる。

 
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南から堀イを渡る
季節を考えないと進入は無理。私は二度断念し、平成27年12月にようやく踏み込むことができました。
12月でも、この笹藪で、鈴振りまくり、スマホミュージック響かせながら突破しました。
 
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堀イ後面(郭4側)土塁
この土塁で郭4内は見通せなくなっていたようだ。
 
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郭4西部
段差で長方形に区画されている。
 
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郭4中央付近
郭4は広大で、宮坂先生は馬場に当たるところとしている。
軍勢の収容のみならず、機動軍ということであれば軍馬の収容という機能も要したであろうか。
 
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郭4東部
やや傾斜があり、傾斜面上にその1でみた堀ウ、郭3・郭2の厳重堅固な防御ラインが構築されている。
 
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傾斜面
登り寄せる者は、斜面上、前面土塁を胸壁にした堀ウ・郭2の城兵から迎撃を受ける(下記掲載)。
 

 
ここから下記、その1で掲載した中枢要害部・郭2の補足になります。
 
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傾斜面上、中枢要害部郭2西防御線、堀ウに遮られ、大城壁状の郭2が待ち構える。
これはストップだろう。
 
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前面土塁と堀ウ
前面土塁を胸壁に、上の郭2とセットで傾斜面を迎撃する天正期上杉の防御施設と観る。
 
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堀ウ底から頭上郭2
厳しすぎる。
 
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土塁上から、傾斜面・郭4
ここを寄せてくる…  
      
中枢要害部郭2西防御線 堀ウを越えます。
 
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もう一度堀ウ中央付近から郭2
北(左)は土塁囲いの郭3が守り、防御力が強化され侵入は阻止。
南は土塁が切れ、架橋もしくは降り登り越し、小郭を経由し郭2虎口Bに接続する。
 
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ウ北端 
竪堀状に降り下る。
郭城内側には土塁が沿い、降り登り越しを拒む。さらに土塁囲いの郭3が設けられている。
 
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堀ウ乗り越しを拒む竪土塁
 
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土塁の中には土塁囲いの郭3が設けられており、堀ウを北から乗り越しを図る者を迎撃できる。
 
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 郭3に侵入できたとしてもその先には堀エ・キ二重畝状空堀が設けられ北からの回り込みを厳重に阻止している。郭2に接続する虎口Cが設けられているが、狭い坂虎口で突入は容易ではない。進撃速度を緩め、ここ郭3に屯しようものなら、右側面上郭2から強烈に頭上横矢を射掛けられる。
 
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右側面頭上郭2
 
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郭2から郭3
完璧な監視下にある。
 
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郭3の先、厳重阻止
(その1再掲)
北回りは無理。
ルートは南回り。
 
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堀ウ南方
城内側は北方と異なり、
堀ウに沿って土塁は無い。
前面土塁も、切れる。
 
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堀ウ架橋もしくは堀乗り越し部
 双方、土塁が無い箇所が平らなので、架橋していたと考えるが、堀の深さが現況とさほど変わらないのであれば降り登り越したか。
城内側 通行部右(南)側には土塁があり、渡る箇所は限定。通行は阻止されていないが備えは設けている。
 
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城内側通行部
 
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渡ると小郭あり
左(北)側面は頭上高く郭2が監視している。
 
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左(北)側面頭上郭2
囲郭された郭2に監視を受けている。
 
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一段緩く虎口B前の小郭に上がり、左折れし虎口Bから郭2に入る。
虎口A同様に虎口前に馬出様の小郭を配している。
写真奥(東)は堀エに接し、下端付近を家老路・郭1A虎口にも接続していたとと考える。(その1掲載)
 
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虎口に配された馬出様小郭
左折れ、虎口Bへ。
 
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虎口B
虎口Aのように逆四角錐台形には掘り込まれていない。
 同じ城でも虎口の造作が異なるわけで、虎口形状が普請能力(時代差)を示すものだけではないことを示す。機能・運用・格の違いなどにより、意図的に異なる構造の虎口を造作しているのだろう。その出入口を使う人物の身分差によるかもしれない。
 
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郭2内
ルートは、郭2内を通り、北東隅の段差区画を経て架橋された堀エを郭1北西隅に接続していたと考える。
北東隅へ進む前に郭内虎口B周辺の様子を。
 
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虎口B入って右
 
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堀エに沿った郭2東土塁南東隅ちょい北から、郭2南塁線・虎口B
 
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書き込み無し
 
野尻新城、名残惜しいですが、ルートを進みます。
 
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藪越しに郭2北東部
段差で区画されている。
 
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郭1北西隅へ接続するエリア
段差手前にも郭3と接続する虎口Cが入る。
 
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郭2、郭1双方土塁の切れた箇所で架橋と考える。
このあたり、その1で掲載してますので、このあたりで閉じます。
 

 
 甲越の争奪の的となった野尻湖周辺の城を、蓮城、古海城、狢倉城、野尻新城と辿ってきました。
 
 信濃のくにの自然の中に眠る城であり、人間の侵入を阻んでいますが、それゆえか遺構が素晴らしく残り、戦国の城を満喫できる内容でブログ記事を書くことができたと自負しています(あくまで自己満足ですが)。
 
 古海城はその作りから、紛れもない武田の城です。武田の鋭鋒は、一時的にしろ、北信濃奥深く越後国境に鋭く切り込んでいました。狢倉城は、記事では上杉の戦略的意義から、上杉の城としましたが、上杉の狼煙台を古海城を築くにまで進出した武田勢が奪い取り、上杉の通信を遮断するため強固に改修した可能性もあります。宮坂先生の二城連動はそういったことを指していることと思います。構造も、越後内では土塁で囲郭された主郭という構造は稀ですが、武田は常用しています。しかし、信濃の上杉城郭では囲郭された主郭や郭は存在します。土塁の造りから感じる雰囲気は私は上杉と感じましたが、双方の波が寄せては返した地帯であり、双方の構造が混ざった可能性もあります。武田・上杉、あれこれ思い巡らすだけで目が爛々として眠れなくなります。
 
 野尻新城は、永禄10~12年に、輝虎が直江大和守ほかに宛てた書状「(前略)其内信州口堅固之仕置簡心候、飯山・市川・野尻新地用心目付油断有間地敷候(後略)」(上越市史別編799号)
 
で堅固に仕置した野尻新地と考えます。郭4・5の囲い込み構造も、永禄末であれば、あるいは輝虎(謙信)期の構築かもしれません。
 
 さらに、後年、謙信の跡を継いだ景勝は、天正10年織田勢の甲斐信濃侵攻に際し、2つの軍勢を編成し信濃に派遣します。
 この2つ軍勢の動きは遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」にて検討されています。また武田従属していた国人達の動向は平山優(2015)『天正壬午の乱』に詳しいので合わせて参考にし、記します。
 一つは松本・水原・新津・竹俣を先発とし、上条宜春を指揮官とする軍勢。この軍勢は、長沼城を目指した軍勢で、概ね現在の国道18号に沿って信濃に進出した。もちろん野尻湖周辺も経たはずである。この軍勢は4月初頭には長沼城を押えているが、在陣中に新地普請を行い、景勝からその労をねぎらわれている(上越市史別編2356)。
 しかし、森長可率いる織田勢が芋川率いる一揆勢を長沼城に攻撃、4月7日には大蔵古城に追い、惨殺している。大蔵古城は長沼城よりも野尻湖に近い18号沿いで、上杉方は四散もしくは越後にまで退却を余儀なくされたようだ。そして5月末には信越国境を抜き、越後国内に侵入、春日山城に迫ったが、月2日に京で本能寺の変が勃発したことによる情勢の変化のため、景勝は信濃に再進出する。16日には長沼城を保持していた島津泰忠(武田に従属していた赤沼島津氏)が上杉に帰属(上越市史別編2407)、森は18日に海津城を脱出し信濃を退去した。20日には海津城代春日弾正中信達が上杉氏に従属を申し入れ(上越市史別編2421)、同じ日に上杉への帰属を躊躇っていた飯山城に在城していた市川・河野・大瀧土佐守・須田右衛門大夫景実が上杉方に城を明け渡した。ここに北信濃の拠点城郭である飯山城、長沼城、海津城が景勝の支配下にはいった。
 
 この一連の動きの中で、野尻新城は軍勢の収容機能をも付加され、虎口の強化や土塁をともなった浅い堀などの天正(景勝)期の普請技術により防御施設を強化されたものと考える。しかし前線はは6月中には善光寺平の南西に移り、野尻湖周辺は軍事的境目地帯ではなくなったため、防御力を厳重に強化する普請は、短期で終了したのではないかと考える。
 景勝の北信支配が確固となるまで、越後と信濃を繋ぐ重要中継拠点としては機能したことであろう。
 
 野尻湖周辺の記事は、これで修了しますが、以下に続きます。
 
 景勝が編成したもうひとつの軍勢は、概ね現在の292号にそって飯山城掌握を目指した軍勢である。飯山城には武田領国支配系統の市河・河野・大滝土佐守・須田右衛門太夫らが在城していたが、勝頼が天目山に自害しても4月20日まで上杉方への従属を躊躇っていた。そのため、この景勝派遣軍が飯山城確保を目指し拠ったのが山口城である。次記事にて山口城リニューアルいたします。ご期待ください。
 
*3月27日に空手大会を開催するため、大会終了後の掲載になります。
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参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号
平山優(2015)『天正壬午の乱』、戎光祥出版株式会社