野尻新城1(長野県信濃町野尻字城ヶ入) | えいきの修学旅行(令和編)

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 野尻新城・野尻島  
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 野尻湖は西に北国街道が近接する信濃ー越後を繋ぐ交通の要衝で、野尻湖に浮かぶ野尻島(琵琶島)には古くから在地勢力の城が置かれていたようだ。戦国期の永禄年間には武田の浸食はこの辺りにまで及び、甲越の境目として争奪が行われた。永禄10~12年の間に、上杉方によって新地が取り立てられ、越後国境の防衛強化が図られた。その新地を野尻新城と考える。野尻新城は、武田の越後侵入を阻止する永禄後期上杉の普請技術による要害であり、謙信死後天正の景勝期にも、武田滅亡から本能寺の変後の北信進出時に、越後と信濃を繋ぐ重要拠点として改修され機能したものと考えられる。本シリーズで見てきた古海・狢倉といった小城郭ではなく、軍勢の収容機能をも付加されたひとまわり大きい規模の城郭である。
 周辺の情勢、地理は、このシリーズの序にあたる信濃最奥野尻湖周辺をご覧ください。
               
野尻新城
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  郭・堀名は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版(以下宮坂本8)に準拠、虎口A・B・C・Dは、えいきがブログ説明のため命名した。
 
 野尻湖畔比高50mの小山に堀切で郭を区画している。中枢となる郭は郭2・郭1で南北は傾斜面、東西は堀ウ・エ・オにより厳重に構えられている。郭2は土塁で囲郭、郭1は東西の尾根堀切側に土塁を備える。湖側には棒道(家老路)が通り、古海城方面に連絡している。郭1は、その道(湖)側に虎口Aを、郭2は湖側に虎口B,北傾斜面郭3に接続する虎口Cが設けられている。
   郭4・5は囲い込みによるスペース確保を意図しているよう様相で、中枢要害郭とは様相が異なる。軍勢の収容がその機能であろうか。天正10年本能寺の変と前後して北信に軍勢を進めた景勝期上杉の軍勢を収容するための普請ではないだろうか。
    西側の虎口Dを宮坂先生は大手の城門としている。

       

 野尻新城は、蓮・古海・狢倉といった城よりも規模が大きいため、二編にに分けておおくりします。
      
            その1では、中枢の要害郭である郭1・郭2を辿ります。
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南斜面下方を通る道の痕跡
古海・狢倉城方面に通じていたようだ。
 
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家老路からのルートは、郭2と郭1間の堀エ下端をとおり、それぞれの郭の南に開口するB、Aの虎口から郭内に出入する。B、Aは似ているようで異なる造作の虎口である。
 
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郭2南虎口B
郭2を囲郭する土塁を開口した虎口
家老路との連絡と、小郭を経て堀ウを架橋し、郭4と連絡すると考える。郭2は後ほど。先に郭1を辿ります。
 
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堀エを西から越え、郭1虎口Aを仰ぐ
郭2は土塁に囲郭されるが、郭1の土塁は東西辺縁のみで、南北の辺縁には設けられていない。
郭1虎口Aは土塁の開口ではなく、内枡形に掘り込まれた構造である。
 
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前面に馬出様の虎口受けの区画をで折れ、平入りで虎口Aに入る。
 
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郭1虎口A
虎口は内枡形に堀り込まれた上杉の逆四角錐台形虎口
 この虎口、えいきの修学旅行で扱った越中・北信・越後各地に見る天正期の上杉の構造。防御力も強化されているが、城の格、ならびに城内での出入口の格を顕して構築されているのではないだろうか(1)。雪の多い地域ということも共通する(2)。
 
 この逆四角錐台形内枡形虎口と、その前面に馬出様の虎口受け区画を設けている連動(二枚上の写真)は、上杉の虎口構造としては最精鋭ではないか。景勝の北信進出に伴って改修されたと考える。
 
  甲山城で扱った堀折れ歪構造に続き、虎口構造の検討も、私のブログの最終目標である「上杉城郭における普請技術の進化過程」に迫る。藪・山中を彷徨った蓄積に、感慨深い。
 
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郭1内から虎口A
では郭内              
 
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郭1
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虎口Aの反対の郭1北面は、鈍く突き出る。その突出直下に竪堀カが走る
傾斜面である南北面には、土塁を設けていない。
 
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竪堀カ
 
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野尻新城の後背となる郭1東面
後背を守り遮断する大堀切オに沿って土塁が設けられている。
 尾根続きとなる東西は堀切オ・エで遮断し、堀切に沿って土塁を設け、防御力を強化、見通しを防いでいるものと考える。
 
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郭1東辺縁土塁
大土塁といった構築ではない。塀に類する土塁構想か。
東尾根との高低差と堀オ幅を考慮し、この高さで見通しは遮ることができるという計算か。
 
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堀切オ
堀オは北端は竪堀状に降り落ちる。左が北。
 
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堀オ北端
 
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降り落ちる
 
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北から堀オ
 
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郭1(東辺縁から)
 対辺の西辺縁も堀エに沿って土塁が設けられている。郭2からの見通しを遮っているものだろう。郭2とは堀エによって分断されている。郭1と郭2は、虎口Aから南斜面に出て堀エ南端をトラバースし、虎口Bに繋がる連絡と、双方の堀エ土塁北端(写真奥右端)の切れ部で架橋していたことと観る。
 
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郭1西辺縁から土塁越に郭2をみる
郭2は郭1の監視下にある。
土塁下には堀エで遮断されている。
 

                    
郭2へ
 
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郭2南部
囲郭と土塁を切った虎口B。
虎口Bも郭1の監視下にある。
 
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 郭1(左)と郭2を遮断する堀エそれほど深くないが、郭1側法面は壁面状。郭2は囲郭されているので郭1側も堀エに沿って土塁が設けられている。これは堀エに南の家老路から敵が侵入する可能性があり、郭1とで挟撃する備えと考える。上の写真でも明らかなように郭1から郭2への見通しを妨げるものではない。
 
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北端は双方(郭1・2)土塁が切れ、郭2と郭1は架橋で接続していたと考える。
堀エ北端は竪堀状に降り下り、堀キが沿い二重畝状竪堀となる。
 架橋を受ける郭2北東部は段差と土塁で枡形には発達していない区画を二区画連続させ、北切岸下の郭3と接続する虎口Cにも連結している。
 
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架橋設備の石か
 
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堀エ北端
竪堀となり降る。
しかも堀キが沿い、畝状空堀状に北斜面からの回り込みを阻止ている。
畝状竪堀状の様子は、あとで郭3からみた写真を掲載します。
 
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郭2北東隅接続部
 
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虎口C
坂虎口で郭3に接続する。
 
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郭3
郭3も土塁で囲郭される。
西の郭4とは土塁下に堀ウで遮断される。
北回りは、堀ウ、土塁囲い郭3、堀キ・エ畝状竪堀で、回り込みを阻止している。
 
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郭3から堀エ北竪堀部・堀キの畝状竪堀の様子。
仮に郭4から堀ウを越え、土塁囲いの郭3に侵入できたとしても、この畝状竪堀により北からの回り込みは完全阻止。
虎口Cから入ることになる。
 
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虎口C
郭2と郭3の高低差もあり、かなり突入は厳しいと思う。
普段は城兵用の通路か。
 虎口Cを突破し、郭2北東部に入ると、そこは先に見た枡形にまで発達していないが、段差で区画された区画が連続し配されている郭2-郭1接続部。
 
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郭2からその接続部
      
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堀エ北端から郭1壁
 
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郭2南東部から土塁・堀エこしに郭1
郭1西土塁で郭1内は見通すことはできない。

 
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郭2の西、郭4との間は、堀ウが遮断する
この堀ウも前面の郭4側に土塁を備える。
 
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 堀ウは、土塁を胸壁にした塹壕陣地で、その背後の法面上の郭2を高所陣地とし、階層2陣地セットで尾根筋から寄せる敵を迎え撃つ構想の防御施設と観る。
 
 このブログで再三紹介している遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」のなかで提唱されている天正期上杉の防御施設としての構造は、上の陣地となる郭には土塁が設けられていない。この野尻新城は、永禄期の城に天正期に改修を加えたため、上の郭に土塁が在ると考えることはできないだろうか。
 
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郭4から土塁・堀ウ越しに郭2
郭2内は見通せない。
 
 その2では、西端の大手城門から、郭5、郭4を経て南回りで堀ウを越え郭2に入るルートを辿ってみます。
 郭5・4は囲い込みによるスペース確保を意図しているよう様相で、その1で見た中枢要害郭とは様相が異なります。
 
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堀ウから郭4
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
       遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
       
       (1)中井均先生の教示をヒントとした。
       (2)遠藤公洋先生の教示をヒントとした。