四度目の登場
今回は左奥の狢倉城です。ネット初出。
古海城の南東約1.2km標高1065.2mの狢倉山頂に築かれている。古海集落から比高400mもあり、一見寄せ付け難い。宮坂先生は「甲越戦争の頃、上杉氏が連絡用に設置した狼煙台という伝承がある」としている。
北西端の郭2に石囲いの狼煙場構造があり、斑尾方面と野尻あるいは妙高田口方面との連絡中継地であったとは思うが、単なる狼煙台ではない。
主郭は重厚な土塁と鋭い切岸が囲い、竪堀様の虎口を備える。尾根続きとなる南東尾根には二重の土塁付堀切を構えている。
林道からその雄姿
林道が南東尾根先を通り、南東尾根(写真左)から狢倉城を目指します。
道はしっかりしているが、途中ジェットコースターのようなアアップダウンがあります。気を付けて通行ください。
林道が狢倉城南東尾根先を通過するところに信越トレイルの看板あり。駐車可。
右に貉倉城。
看板裏にトレッキングコース
トレッキングコースは下ります。整備されています。
しかし、私が目指すは狢倉城
宮坂本には「南東搦手の鞍部から登ると楽である」(宮坂 2014)とある。
…。
ところにより、迂回しつつ、縦深に設けられた鉄条網を潜るように、顔・体中、ピシパシ刺さりながら、ときに身動きがとれないほどの藪中を突破して南東尾根伝いに接近。
鞍部の藪を抜けると、こんどは傾斜がきつくなる。
一見、藪は易そうに見えるが、木々が逆茂木のように尾根を下に向き生えている。
このように
これがけっこう痛く、危なく、行く手を阻む。
傾斜が緩くなると、途中、堡塁状の箇所もある。
しかし枝の写真はもういいでしょう。
城の写真へ。
狢倉城の南東尾根を遮断・防御する、堀ア、イが構築されている。
堀ア
ここまで林道から15分。
堀アは、内壁11m、後背は上幅4mの土塁(宮坂 2014)
と、その後ろに堀イが構えられている。
遠藤公洋は(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。
堀アは浅くはなく、遮断機能を優先か。
前面の土塁
前土塁から堀底
浅くもない…。
前土塁 斜から堀ア
浅くもないが、後ろの法面の厳しさと比すと、迎撃射手が拠る横堀ラインにも見える。
いや、埋土を考えれば、この案は無理か。
後背法面を登り切ると逆技が邪魔で写真いまいちのため、法面途中からも掲載します。
法面上の土塁に憑りつきました
後にさらに堀イが遮り、その後ろに郭1(見えているのは郭1囲郭土塁)。
土塁上、幅があるのがわかるであろうか。
上杉の畝構造とは機能が異なる、上の迎撃陣地としてのスペースがとられていると考える。
土塁上から前面(南東)をみる
ア堀底のみならず、南東緩斜面をも射線に捉えている。
背後(西)には、さらに堀イ
イ堀底は、平で、石の造作や区画された痕跡があり、郭・通路・天水溜として利用されていたのではないか。 宮坂先生は、堀アの堀中の状況として「穴状の部分もあって天水溜になっていた可能性があり、北半分の堀中は広く曲輪になっている」としているが、その記述は堀イのことではないか。
背後 堀イ北の広い部分
これは堀イ南
郭1南隅下で、ここから郭1南西下を通路状に帯郭が配され、西の郭2と接続している。郭2には狼煙台と思われる石組や、投石用と思われる石の集積場がある。
西の郭2と連絡する帯郭は、頭上に郭1南西土塁が巡り、監視されている。
郭1囲郭土塁のうち、南西部は「馬踏みは幅5m」(宮坂 2014)もあり、帯郭監視を意図したものであろう。
そしてこの壁面、石垣様に石を積んでいたのではないか。
馬踏み幅5mの郭1囲郭土塁南西部
郭1は後掲。
土塁上からは、連絡用帯郭を監視
帯郭は一部、細くなる箇所もあり、郭1南西土塁上は帯郭通行を掌握している。
帯郭から郭2南部に接続する郭1西隅下部には、大きな石による造作の痕跡がある。
上写真のちょい右(北)
郭2南部は西の縁に投石に適した大きさの石の集積場が二か所ある。
南部との段差付近に石囲い造作があり、狼煙台であろうか。
投石用石の集積か
もう一箇所
こちらは石のサイズが大きい。
石囲いの狼煙台であろうか。
「狼煙を挙げよ」
と、郭1から物主の下知する声が聞こえる気がする。
こっちか?
西
野尻湖の東部は見えるが、野尻城・野尻新城は見通せない。しかし、ここ狢倉城は標高が高く、狼煙が揚がれば双方で狼煙を視認することはできたのではないか。また、後方(東)の斑尾ー飯山方面への中継、北の越後妙高方面との中継が、この標高1065.5m・比高405mの高所に築かれた、この狢倉城の使命であったことであろう。
郭2北部は藪の気配
郭2北部 石遺構見たいが、藪…。
狢倉城主郭(郭1)
土塁で囲郭されている。
…、ジャングル。
郭内に「岩があって、そこに洞穴がある」と宮坂先生は記しているが、頑張ってみたがわからなかった。
北東隅に虎口が設けられている。
囲郭土塁南面から西隅
北東隅に土塁が開口し、郭1の虎口が設けられている。
郭1虎口に接近
石囲いで補強されている。
虎口があるということだけでも凄いと思うが、この地の確保に懸ける思いによる造作であろう。
狢倉城の戦略上の重要度が漂う。
虎口先は竪堀状に出る
南土塁郭内側
土塁は、しっかりした造作で、ぶち破るなどできない。
堅守の強固な意志を感じる。
まとめ
狢倉城は、尾根続きの南東には遮断・迎撃機能を備えた二重の大堀切を構築し、主郭は囲郭土塁、虎口を設け、堅固に守られている。
狢倉城は、標高が高く、視認できていない野尻・野尻新城方面とも狼煙が挙がれば双方で狼煙を視認することができたのではないかと考える。また、後方(東)の斑尾ー飯山方面への中継、北の越後妙高方面との中継も、この標高1065.5m・比高405mの高所に築かれた狢倉城の使命であったことであろう。狼煙台とされる遺構は各地にあるが、これほど堅固に狼煙場を守った城も珍しいのではないだろうか。
それは、この地を確保し狼煙を中継することが越後上杉氏の戦略のなかで重要な通信であり、狢倉城が上杉氏の戦略上の重要度から、上杉中枢によって構築され使用された城であったことを物語っているのではないだろうか。
参考文献
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号