古海城(長野県信濃町古海城山) | えいきの修学旅行(令和編)

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この写真、三度目の使用です。
北信最奥に、このように近接する二城がある。

 周辺図は信濃最奥野尻湖周辺:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898135.html

をご覧ください。

 宮坂先生は「この二城は連動していたものと思われる」。両城とも小さいが、虎口を構え、甲越双方の戦略の中で、甲越中枢の意思によって構築され利用された城と考える。
  
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古海城は、山上に円形の郭1、郭1を周回し郭2が設けられている。甲陽軍鑑、丸の具現。
 郭1は北に半円に土塁を巻き、南西に虎口がある。周回する郭2は土塁が全周し、帯郭様のところと横堀様のところがある。北西に開口する虎口がある。
郭2の下、唯一尾根が続く方向である南から東にかけては、もう一重横堀を巡らせ、その横堀からは放射状に竪堀が放たれている。円形の郭、横堀から放たれる放射状竪堀、まぎれもなく、この地にまで進出した武田の手による構築であろう。
 古海城は、武田の特有の構造が明瞭で、このような奥地にまで武田の兵が居座っていたということに驚愕する。まさに謙信本国越後に迫り臨んでいる。                                        
                  
では行きます。
 
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南から比高約80mを直登
県道が際を走っています。
 宮坂先生は「古海トンネルの手前のカーブの所から、後ろの鞍部へ登って頂上へ向かうルートが比較的楽である」と記しているが、鞍部まで藪が深く、数週前に登ったらんまるさんが、最短距離で到達と成功例を記述をしていたので、足跡を追って私も直登を選択。
 
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息絶え絶え途中の様子
苦行9分。
 
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下方…
 
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強烈に心肺負荷をかけ、ターボ噴射。
放射状竪堀に遭遇。
息絶え絶えで声は出ないが、一人信濃の山の斜面で満面に笑みを浮かべる。
にやけながらも、息絶え絶え。
 
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放射状竪堀上端
上端は横堀ラインに組み合わさる。
下から13分。
 
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横堀ライン
尾根続きの鞍部方面となる南から東にかけて構築されている。
間違いなく武田の兵がいた。
 
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放射状竪堀
 
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横堀ラインから放たれる。
放射状竪堀、上から見たほうがわかりやすいので郭2からの写真で紹介します。
 
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横堀ラインから郭2
ここもけっこうきつい。
 
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郭2から横堀ライン
 
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藪、許してあげる
 
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横堀も鋭い
 
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横堀北端
横堀は北端で折れ、竪堀にとして降る。
小郭下に北東堀切と堡塁(後掲)
 

                      
郭2
 
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南から郭2にあがるところ
高地は郭1。
郭2は郭1を周回する。
まず右回りします。
 
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郭2 南から東
郭2は土塁が全周する。
土塁下に横堀ライン。
 
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横堀ライン上塁線には、ところにより石積の痕跡
頑強さを求めたものか、投石用か。
 
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東から北
土塁下に横堀ライン。
逆回りします。
 
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南から西
 
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西面
 
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西斜面
傾斜がきつい面には、横堀、竪堀放射はされていない。
 
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郭1虎口前付近
帯郭状。
 
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郭Ⅰ虎口(のちほど)
 
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北西付近
丸な様相が顕著。
 
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北に土塁が開口する
城外との出入口と考える。
 
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土塁開口部
 
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越えて見る
 
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郭1から見る
郭1が頭上から監視している。
 
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下方、路は途中で不明瞭になるが小郭あり
降ります。
 
 

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北斜面西端小郭
右(東)に竪堀が付随
竪堀下端から東に約50m武者走り状の平地がある。
 
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竪堀
 
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武者走り状の平地
(城遺構ではなく後の造作かもしれない)
しかし、南東の尾根ではなく、下からくるとすると、越後側であるこの北斜面からの寄せが想定される。
北斜面、こころなしか藪が緩いように見える。登坂可能やも。自己責任で。)
その先、北東に掘切あり
 
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堀切と、堀切先の堡塁
 
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堀切やや上の削平地から堀切と堡塁
 
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すぐ脇に南から東に巡ってきた横堀ライン北端
横堀ライン北端からは、最北の放射状竪堀が放たれている。
 
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線なし
 

                            

郭1
 
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北西の郭2出入口付近からみた郭1
丸円の造り。
 
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虎口は南西にスロープ状に設けられている。
虎口が造作されていることに驚き。
 
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郭1は写真あまりないので、線なしも。
 
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斜めから巻くようにスロープ入り
虎口内、左が高く土塁が設けられ、防御力が増強されている。
 いやしかし、ここで戦うって、孤立無援じゃないのだろうか。替佐あたりから後詰めがくるのだろうが、越の本軍ほどの大軍に寄せられたら抗戦も空しいと思うが。敵の状況によって、去ったり抗戦したりの判断をしたのだろう。
 
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郭1虎口
左が土塁で僅かに高い。
 
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南(上写真の右)から郭1虎口
 
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郭1内はところにより、観察できる。掘立建造物の柱穴とか発掘できたら面白いと思う。
 
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郭1は、北面に半円形に土塁が巻く
城外から郭2ラインへの出入口側であり、越後側でもある。
 
 古海城は、まさに越後に臨む武田の城です。
 古海城は、永禄10・11年の野尻島争奪・飯山城攻略と越府討ち入りを狙う武田攻勢という波に乗って、信濃最奥野尻湖周辺にまで武田の先鋒が進出した際の最前線砦であろうと考えます。
 輝虎は、関山には宝蔵院、宇佐美、平子、須田、黒瀧衆に加え,十郎方・山本寺・竹俣・山岸・下田衆相籠、此外旗本之者共十騎十五騎、両地江為横目入置、春日山には輝虎の手勢として手前ニ者山吉・河田・栃尾衆を置き、備えました(上越市史別編613)。
 関山の後詰が斑尾を経て飯山へ駆けつけるには、古海を通過、もしくは一旦引いて斑尾、富倉峠に回るとすれば、古海城の武田先鋒は、越後に侵入し攪乱できます。
 武田中枢の意を受けて作戦を理解した武田先鋒の一手が、越後からの後詰めの監視と牽制、あわよくば越府討ち入りを探り拠るには、この古海城の取り立ては賢察でしょう。
 しかし、越後からの大軍に寄せられたら、小城かつ退路も無い立地のため、抗戦は空しいと思います。
 越後本軍が、飯山城救援をはかり大波の如く寄せ来たれば、越軍来るを報じ、退去したことでしょう。
 武田が飯山城攻略を止め南の駿河に向かった時点で武田の波は引いたのであり、越後を刺激するこの古海城は放棄され、武田の前線は若宮ー蓮ー平沢の線に退いたのではないかと考えます。
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斑尾ー飯山の山間の後谷・田草・小田草城は帰属がわからないので白で示した。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
 
 編集後
 
 宮坂先生の縄張図を見て、このような武田の城が越後至近にあるなんてって、驚きと怪訝な想いを抱き、私は二度古海城に挑戦したが、二度とも断念している。
一度目は藪で、二度めは藪を避けた冬に挑み、雪で、(あたりまえ)、ここは無理だと諦めていた。
 しかし、らんまるさんが到達成功し、宮坂図に描かれた遺構が残ると、その様子を写真とともにブログで公開された。それを目にし、闘志が湧きたった。らんまるさんの成功とブログ公開がなければ、私は再々挑戦しようとは思わなかったことであろう。
 勇気をあたえていただいたらんまるさんに感謝する。
 らんまるさんの古海城 http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-743.html 
 
 私のブログも、人に勇気を与えるようなレベルになりたいものだ。
 
 しかし、らんまるブログもえいきの修学旅行も、読者に占める普通の人の割合は低いことと思う。それなりのビョーキの人が多いであろう。そのようなレベルの方々に注意喚起はしなくてもよさそうなものだが、念のため一言添えておく。古海も狢倉も、心配負荷強く掛かり、顔や手足にビシバシいろいろ刺さる。季節によっては人間の侵入は無理。動物はむろんいる。
 
それでも行くぞと思った方は、覚悟を定め挑戦ください。両城とも一見の価値のある城です。