鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城・夜交氏山城 まとめにかえて | えいきの修学旅行(令和編)

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 高梨氏が、弘治三年、武田の攻勢が迫るなか、落合氏の葛山城落城をうけて本拠である鴨ヶ岳城周辺から飯山へ退去し、越後の長尾景虎を頼ります。高梨政頼が、鴨ヶ岳城で抗戦せずあっさりと飯山に退去した背景を探ろうと、本拠鴨ヶ岳城、隣接する鎌ヶ岳城、周辺の被官夜交氏の山城を踏み歩き、その様子を書き連ねました。
 
 現況の城跡の様子は、高梨時代ではなく、世が定まり近世へと移行する過程で城としての機能を終えた時点での遺構ですが、戦国の醍醐味いっぱいに掲載できたと自負しています。
 
 比高約300mの山上天空に構えられた鴨ヶ岳城は、山自体が要害であり、堅固なものでした。本能寺の変後、北信に進出した越後上杉景勝による改修も認められ、その重要性は認知されていましたが、軍勢を収容する容量が少なく、景勝は鴨ヶ岳城域南にさらに鎌ヶ岳城を増築し、景勝軍を収容、進出地周辺を確保するとともに、麾下軍勢を上意を持って運用し北信はたまた上野へと進攻するための基地としたと考えます。夜交氏山城も武田についていた夜交左近の持城として、この地域に進出した越後上杉景勝の更埴・安曇野方面さらには上野(これは言い過ぎか)をも意識した上杉水準での改修を受け磨かれたことと考えます。
 
 で、テーマとした高梨氏が鴨ヶ岳城で抗戦せず、あっさりと飯山に退去した背景の愚考を、まとめます。
 
ヤフー地図に城の位置を書き込みます。井上・須田・山田城はリンク張りますので参照ください。
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 葛山城落城を受けて千曲川北の国人島津氏も分裂し、赤沼島津氏は武田に付き、長沼島津氏は長沼城から大蔵城に退きます。
 武田勢は高梨の本拠鴨ヶ岳城周辺に迫ります。
 
 しかし、鴨ヶ岳城は村上氏の葛尾城や落合氏の葛山城よりも越後に近く、また長尾氏との関係も近い。高梨政頼が自家の軍勢を率いて鴨ヶ岳城に籠城し抗戦、鴨ヶ岳城山麓に寄せる武田勢の背後に越後の後詰が攻め掛れば、高梨ー越後勢の逆転勝利ではないか。
 しかし、高梨政頼は、鴨ヶ岳城で抗戦をしなかった。

 

 夜交氏山城は、鴨ヶ岳城よりも奥に位置しますが、その夜交氏も武田方、越後方に分裂し、つまり武田の指揮系統は、高梨領内にも入り込み、早くから武田に随身した市川氏の勢力圏と夜交ー山田を通じて繋がります。鴨ヶ岳城は千曲川の東で武田方の中に孤立します。
 
 池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」から高梨氏の状況を要約すると、高梨氏は鴨ヶ岳城からの敗走前にも、天文22年と弘治元年の二度の川中島周辺で武田方と合戦があり、その戦争で家臣を失っていた可能性がある。また信濃国人の被官等は従属度が低く、叛くというよりも機あらば自立する志向があり、夜交氏のように被官も越後方・武田方に分裂していたとあります。(池上 1998,pp.6-8)。
 
 大城小城とこってり書いた夜交氏などは、南北朝期に領主権を高梨氏に移され被官化された事情からか繰り返し高梨氏に反抗している。中野周辺は、小布施から起こった高梨氏が中野氏を追い本拠とした地であり、中野氏衰退後に高梨氏の被官となった武士など、高梨家中には心服していない被官等も含んでいたことであろう。また高梨一族内も惣領家と諸家の間での相剋もあり、一族間の軋轢も抱えていたことであろう。
 落合氏の葛山城もそうであったが、城が落ちるのは、城内の裏切りによる事例が多い。その場合、城主は落ちのびることはできず、内応者によって殺され、その首が内応の証として献上される。
 
 鴨ヶ岳城主郭は、北を堀オ、南を堀カで堀切り、東西は急傾斜の崖で独立している。高梨惣領家の孤高が漂い堅固ではあるが、城内で裏切り者がでた場合、城主は脱出ができない。
 
 高梨政頼は己が軍勢を束ねて鴨ヶ岳城に拠り、景虎後詰めまで籠城・抗戦できる状態ではなかったのであろう。
 
参考文献 池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号
 

   おまけ  
 
 宮坂本には、急な尾根筋を登り詰めた先に、逃げ込むには適した所、遠見、おとこみや(大遠見小屋)などの詰の城にふさわしい処があるという、と記されている。
  宮坂先生は、その記述に胸ときめかせる男達がいるとは想ったであろうか。 
 

 

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急な尾根筋

 

我々には苦でなく笑いを与える。
 

 

 

 

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藪も緑の楽園のよう
 

 

 

 

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 宮坂本の「幅広い平らな所に出る。削平したらいしい所があり、逃げ込むには適した所である」地点であろうか。

 

 

 

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「その上の小さな突起のところが遠見と呼ばれるところであろうか」と記述は続く。

 

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小さな突起らしきものが
 

 

 

 

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ここが遠見と私は理解
 

 

 

 

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旅は終わったと思ったが、らんまる・ていびすさんはここをスル―…。
 

 

 

 

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位置を確認
 

 

 

 

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さらに奥へと躊躇いもなく進む…。
 

 

 

 

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いったんくだって
 

 

 

 

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また登る

 

われらの心をこうまで駆り立てるものは「「滝の沢」の清水のわく岩場があり、俗に「おとみこや」(大遠見小屋)(「さいさく」ともいう)などの詰の城にふさわしい処があるというが確認はできていない」

 

という記述で、教祖さえも確認していない処に到達してやろうという欲求であろうか。
 

 

 

 

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なんか登頂っぽい
 

 

 

 

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清水の湧く岩場ではない
 

 

 

 

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せめて眺望でも、と願うが木で視界は遮られている。往時は抜群であろうが。

 

ここで、引き返しました。
 

 

 

 

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あそこを嬉々と踏み歩く、らんまる・ていびす・えいきがみえたであろうか。
                                             
                           ああ、信濃の国よ
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参考文献 池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号
                宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
            遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号