大城の後方高地に小城がある。
大城が支えきれない場合の詰めの城、または大城の後方を守る機能を有したか。
らんまるさん作図 夜交氏山城 小城 見取図を引用します。
名の通り小城だが、しっかり作られている。
大城方向の北西尾根は堀切に土橋が設けられ通交しているが、後方の遠見方向の東尾根は主郭直下に防御施設を置き、幅は広くはないが鋭い堀切を多重に設け厳重に備えている。
では小城へ。
鎖骨の手術や合宿で3か月ぶりの山城だったので、この登坂をみても労とは思わなかった。
尾根って合理的で有効な道だったと思う。そのようなことを話しながら、躍って行ったと思う。
このあたりに大城の南東端となる堀カ
堀カは、らんまる図大城に掲載。
これが堀カであろうか
尾根伝いなので迷うことはないでしょう。
めざす小城があれに
睨み闘志を蓄えるらんまるさん。
大城側には堀キ、クの二本掘られているが、土橋が設けられ通行可能。
堀キ
土橋が通る
登って堀キを見下ろす
土橋が通るということは遮断していないわけけで、大城とは連絡していると考えてよいか。
上には堀ク
堀クも土橋が通る
ややボケでますが、上から堀ク
夜交氏山城 小城主郭へ
虎口は明確ではない。
らんまる図より 主郭周辺を抜粋
(図の左上から来ました)
大城背後の郭3から小城主郭まで私達の足で21分。
夜交氏山城 小城主郭
頭頂部で、ほぼ円形の単郭。
低い土塁が囲郭する。
低い土塁、わかりますか
大城主郭の囲郭石塁とは比すべくもないが、他の信濃の山城の主郭の囲郭土塁と比べ低く幅も狭く、趣が異なる。逃げ込み程度ならそこまでしなくてもよさそうなものを、わざわざ造作したわけだから、低く幅が狭い意味があるのだろう。
あるいは遠藤公洋が指摘する塀の構築に関する土塁ではないか。
遠藤は、天正12年と推定される書状(上越市史別編3010)で景勝が信濃の上杉家臣を統括する立場にあった上条宜順に塀のこと確認していることから、信濃の上杉城館に対し塀の設置を指示したと推定している。
天正期に入り10年ほどの間に上杉氏は「塀」という言葉で表される囲郭施設で城館を囲む傾向を強めていったとしている(遠藤 2009,pp.39-40)。
西に帯郭
この帯郭は竪堀ケを備える
らんまるさんが嵌っているところが竪堀ケ
大城から歩いてきた尾根は、小城で東へ直角に折れる。さらに尾根伝いに遠見に至る。
遠見に至る東尾根切岸下に堡塁。
前面は堀サを配し、両端を堀コに挟まれ横からの回り込みを阻止し守りを固めている。小さい単郭の小城だが、東方面にはこれほど手を入れて備えを固める意義はなんであろうか。
加筆なし
堡塁の左(北)の堀コ
堡塁の右(南)の堀コ
遠見に至る東の尾根に備えている。
そしてこの前面に土塁のない小郭、切岸下の堀サ、その堀切サの前面に土塁。この組み合わせは大城の第一堀切、第二堀切でみた、土塁を胸壁にした塹壕陣地と、その背後の切岸上の小郭を高所陣地とし、両陣地セットで尾根筋から寄せる敵を迎え撃つ構想の防御施設と同じではないか。
側面から堀サ
堀の前面に土塁と観る。
鋭い壁状の切岸下に土塁を伴う浅い堀。
堀サを越えて主郭方向をみる。
繰り返しになるが、土塁を胸壁にした塹壕陣地と、その背後の切岸上の小郭を高所陣地とした、両陣地セットで尾根筋から寄せる敵を迎え撃つ構想の、天正期上杉の防御施設と観る。
断固阻止。
抗戦意欲を放ち、逃げ込み城の様相ではない。
武田時代までの構造ではなく、天正期上杉により手が加えられた改修と考える。
しかも、東を意識している。東は志賀高原、その先は上州吾妻。
その先、約30mほど緩く下り
堀シが設けられている
これも鎌ヶ岳城堀スと同じ構想の、緩斜面を囲い込む構造ではないか。
とすると天正期上杉の改修と考えることができる。(遠藤 2009,p.47)
堀シ
そのまだ先(東)約30mにもう一本、堀ス。
四重の堀切で備えている。
先ほどの主郭直下の堡塁ほどの手入れはないが、前面に土塁を備えない堡塁上の小郭があり、堀スとなる。
堀ス
すこし左に移動し堀ス
堀スは前面に土塁をともなっているかは明瞭ではない。
法面には石がある
石を用いて壁面を造作したのではないか。
土塁を伴う浅い堀と、切岸上の土塁を伴わない高所陣地とのセット防御施設かどうかは明確ではないが、明確でない故に、先ほどの堀サ、大城第一堀切、第二堀切が、それぞれ高所陣地とセットになった防御施設と見映える。
ここで城域は終わる。
しかし我らの旅は終わらない。宮坂本に遠見と呼ばれるところがあると書かれているから…。
長くなりましたので、夜交氏山城 小城、ここで終わります。
まとめると、大城に至る尾根(方向)は堀切を二本入れているが、土橋を設け連絡し、大城側には厳しくは備えていない。大城は小城側にも厳重な堀切を設け警戒している。
後方の東・遠見に至る尾根は、四重の堀切を設け、天正期上杉の水準と思われる防御施設、城壁を構築し厳重に備えている。
郭は主郭単郭であるが、低い土塁を備えている。これは天正期上杉の塀の構築に関する土塁と考えることもできるのではないか。
私は、夜交氏山城 小城は、大城からの逃げ込みのためや詰めの城という役割ではなく、大城と反対方向(後方)に対して抗戦を意識した構造であり、大城の後方(東方)を守る要害であると考える。 いまにみる夜交氏山城 小城の遺構は、天正期越後上杉景勝の、東の志賀・万座を越え上州吾妻をも意識した上杉基準の統制のもとに手を加えられ改修された姿であると考えたい。
らんまるさんは遠見に至る東尾根の縄張を「この縄張は一見すると遠見の尾根筋への警戒のように見えるが、実はその逆で、大城が破られて小城に退いたときにここで死守する悲壮な決意と考えたほうが良いかもしれない。遠見のある場所は最終の避難場所だったと思われるのだ。」(らんまる 2015)とし、私とは異なる見解を述べておられる。
遠見は一連の鴨ヶ岳、鎌ヶ岳、夜交氏山城のまとめで、おまけとして写真紹介します。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号
参考サイト らんまる攻城戦記 http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-745.html
見取図は、らんまる攻城戦記より引用させていただきました。
らんまるさん、ありがとうございました。