夜交氏山城は、本格的要害・大城と、後方のミニ要害・小城とからなる。
夜交氏は中野氏の一族であったようだが、永正10年(1513)に小島氏等と高梨氏に叛き鎮圧されて以降は高梨氏の被官となった。
高梨が武田の侵攻に際し、なぜ鴨ヶ岳城で抗戦せず飯山へ退去したのかが今書いている鴨ヶ岳・鎌ヶ岳・夜交氏山城の一連のテーマなので、山城の様子の前に夜交氏の動向をまとめておく。
武田の侵攻に際し、夜交氏は武田に与する者と越後長尾景虎を頼る者とに分裂する。夜交千代松と父、夜交源七郎は武田につき、千代松の親は討死し、千代松は高坂虎綱より永禄5年8月に当知行の安堵と新恩を受けている。上杉を頼った者の名に夜交九郎三郎・同民部左衛門がある。上杉を頼り越後に逃れた国人の被官の中には高梨や井上といった国人家中に残った者もいるかもしれないが、自立・地位の上昇を志向し、謙信直臣として働いたものも多い。元々、信濃国人の被官等は従属度が低く、叛くというよりも機あらば自立する志向があり、高梨から離れ武田・上杉に付くというのはその志向の顕れのようだ。
さきの夜交九郎三郎・同民部左衛門の二人は、御館の乱で景虎方につき、所領を没収されている。(池上 1998,pp.6-9)
武田に付いていたと思われる夜交左近助は、武田滅亡・本能寺の変・森の退去を経た後、景勝麾下となり、文禄三年定納員数目録では信濃侍中で558石、会津移封後は千石を給されている。
では、城へ。
山ノ内町史跡山城入口標柱地点
ここのあたり
卒倒しそうである。
林道、獣除け有り。
感電に注意しながら、外して入る。
ピクニックな空気。
そんな空気もあえなく落石で途絶…。
ここをよじ登ることになった…。
この日は、らんまるさん、ていびすさんと同行のため撤退など脳裏を掠めることはあり得ず、即座に落石巻き込みを防ぐため散開、攻城(よじ登り)開始。極めて危険ですの慎重に登山可否判断ください。
庭のように駆け巡るていびすさん。
北西尾根に取り付き、山頂を目指します。
うっ
退却は脳裏をかすめません。
北西尾根から山頂へ。
第一空堀の標柱発見
この空堀、ふつうの山城の尾根を掘切る空堀ではないのではないかと直観。
第一空堀は土塁を胸壁にした塹壕陣地で、その背後の切岸上の小郭を高所陣地とし、両陣地セットで尾根筋から寄せる敵を迎え撃つ構想の防御施設と観る。
遠藤公洋は、この夜交氏山城に関しては記していないが、(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。
私は、この夜交氏山城大城の構造も、その構想と同類と観る。
第一空堀
前面(左)に対し深さはさほどない。
ていびすさんが調べるは北端。
尾根筋なので横堀形状は短く端は竪堀形状に降る。
第一空堀北端
ここにルートが入っていたのではないか考え、帰りはここを降りた。
前面土塁を胸壁とする塹壕陣地(土塁を伴う浅い堀)と観る。
いかが
後背は岩壁の切岸
上は削平され、土塁前面の緩?斜面と、第一空堀線を見張る高所陣地となっている。
この上が小郭で、土塁のない高所陣地
切岸上の小郭 高所陣地
小郭からは木で見通しが悪いため、岩壁途中までせりだして第一空堀線をみる。
ていびすさんは土塁線の前にいます。
線なし
私の観る構想、あたりだと思います。
南端は竪堀がもう一本併走する。
ここでらんまるさん作図の夜交氏山城 大城 見取図に登場願おう。
左の㋐が現地標柱の第一堀切。
㋑が第二堀切。㋒が第三堀切。
㋐、㋑、㋒は尾根を掘切る遮断線という意図よりも、防御ラインという構想の天正期上杉、謙信期は武田勢力圏のため、景勝期の普請構造と私は観る。
尾根筋上方
宮坂図では9段の造作があり第二空堀に至る。
緩斜面うえに第二堀切(らんまる㋑)
第二空堀も第一空堀同様の塹壕状の浅い堀で、前面に土塁を備える。後背は切岸上に土塁を備えない小郭が高所陣地として守る。こう前進する敵を、階層二段陣地から迎撃する。
セットになった天正期上杉の防御施設(陣地)
前面に土塁を備えた堀イ(第二空堀)
遮断線にしては浅い
土塁を胸壁にした塹壕陣地とみれないか。
北端
竪堀状に降り下りる。
堀中を土橋状に渡り
背後の切岸を登る
登るとは言っても、第一空堀背後ほど高くはないが、岩の絶壁に近く、容易ではない。
しかも上は城兵が頭上から迎撃する高所陣地。
高所陣地から第二空堀イ線見る
第二空堀背後切岸を登った先は、幅が広くなり、郭2まで約80m緩斜面が続く。
この緩斜面は、藪中で踏み込めないが、宮坂本によると幅3~7mの帯曲輪が階段状に10段ほど設けられているという。
しかし、藪。
ここで断念か、と思いきや
北側に、歩けそうな土が開けている。
これが往時もルートなのだろう。
北(左)端のみ段差はやや緩い趣で、通行可能。
北端から中央・南をみる
段差により、寄せ手が展開したても大波が寄せるが如くは山上に向かって殺到はできないだろう。
北端いがいは、段差、けっこう高い。登坂できないのではないか。
郭2に近い段の北帯郭状伸びる隅には石積が見られる。
郭2近くから段差普請緩斜面をみる
郭2が近い
郭2は奥の高所に区画されている。
郭2
奥に郭1の囲郭塁線が見えるであろうか。
郭1は石積で囲郭され、郭2側には第三防御線となる第三空堀(らんまるウ)が設けられている。
苦難も吹き飛ぶ。
郭1は石積で囲郭され、第三防御線となる第三空堀(らんまるウ)が郭2と遮断する。
郭2側にも低い塁線土塁が設けられている。
しかし、堀ウは浅い堀ではなく、ア・イのような土塁を伴う浅い堀ではない。鎌ヶ岳城堀シと同様の構造と考える。
この山奥にこのような絶品が…
山奥ゆえに残り得たのか。
第三空堀(堀ウ)北端
これ、夜交一手で構築することができるのだろうか。
堀ウ堀底中央部
段差から南端
堀ウ南端
夜交氏山城大城主郭・郭1
郭1はルートなど悶えながら、その2で紹介します。
参考文献 池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号