中条城・累城 2 | えいきの修学旅行(令和編)

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2では、中条城の後背を警戒する四重堀切。
さらに背後高地を増築し、守りを固めたと思われる累城を辿ります。
 
 永禄6・7年ごろ、飯山城は一時武田方に占拠されている。永禄11年には武田晴信率いる甲軍主力により大攻勢を受けている。政虎は、飯山落城の危機も想定したであろう。もっとも飯山城は信濃にたらした釣り針にも思えるが。
 
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中条城郭1北土塁上から後背を警戒する四重堀切エ、ウ、イ、アを見る。
堀ウとイの間は鋭く削り残し尖る。また堀イとアの間も高地平場を削り残している。
この写真では凄味わかりませんが、側面から巡ってきましょう。凄いです。
まず、右(東)まわりで堀アからエまで巡り、その後で左(西)からの写真を補足します。
 
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東まわり堀ア
 
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堀ア
 
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堀ア底(5月)
箱状である…。
 
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堀アとイの間は、高所を削り残している。防御陣地あるいは架橋部か。
 
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高所の北は堀イ
堀イの北は鋭く尖る。
 
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堀イ
雪があっても凄味が漂う。
 
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堀イ
 
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イ底(5月)
 
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尖り
西からいい写真があります。後ほど。
登りましたが、極めて困難です。
 
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尖り上
鋭すぎて陣地としては狭い。
 
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尖り上から北
直下が堀ウ対岸に四重目堀エ
郭1ー高所ー尖りー堀エ南土塁ー郭8と架橋していたか。
堀エとウは右(東)で集まる(土塁で仕切り有)。
 
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さらに東の堀エ・ウ下方でエ・ウは堀オに合流する(この写真には写っていない)
降ります。
 
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堀エ、ウ、オ合流部
 
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堀ウ
奥(北)の堀エとは、敷居のような土塁で仕切られている。
 
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堀ウ
 
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堀ウ底(5月)
ここも箱状加工がされている…。
 
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堀ウ 少し角度をかえて
 
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仕切り土塁の北 堀エ
箱底は通路用途にもみえるが、右(北)の累城方向は切岸が高く、昇降は不可能に思える。
 
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堀エ高所
雪が無ければ昇降は無理だろう。
左の中条城側土塁と右の郭8で架橋していたか。
中条城側土塁は高所から西に小堀切が付随する。
 
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堀エ西端
 
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中条城側土塁高所西部
小堀切が付随する。
 
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中条城方向
ここで架橋接続していたか。
 
では西側からの様子を写真で補足します。
 

 
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堀ウ、イ
 
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信仰すら感じる…
 
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5月
 
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堀ウ底
 
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堀イ底
 
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堀ウ西下方から
ウはイ・アを包むように配されている。
 
累城へ
 

もう一度全景写真
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中条城の後背鞍部の四重堀切の後背高地に累城。
 
 宮坂本では、「その増築は、武田氏の侵入に備えて、上杉氏の支配下で強化されたのではないかと推測する。そして増築部分を累城と呼んだもので、全部を中条城としてよいだろう。」としている。
 また『長野県町村誌』からの引用で「文明年間尾崎城主泉重治の六男、中曽根左衛門尉重道 之を築く。会々今清水重継と兄弟和せず屡争闘す。因て重道退去して中小屋城を築き、此の地を廃せしと云伝ふ。」とする伝承も紹介している。
 
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郭8
上方に累城
 
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どのように接続していたかはわからないが、よじ登ります。
 
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中条城四重堀切方向
 
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累城方向
 
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帯郭が巻く
 
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帯郭には竪堀が付随する
 
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累城(郭9)
背後に土塁
ここで終わりません!土塁背後に二重堀切。
 
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土塁北西部
 
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土塁郭9北端部
 
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の裏、二重堀切
手前累城側は堀カ、奥をク
写真は東部で、東部はカとクの間にもう一本堀キを設け、三重となっている。
 
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もういっちょ
 
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西部
 
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堀カ西端
 
 中条城・累城終わります。
 
 城坂城そしてこの中条城・累城と、越後に迫る武田の脅威に備え謙信が強化した謙信の城として書き綴ってきました。エピローグはもう一ネタあるので稿を改めますが、この2城は戦国期の当事者である上杉方・武田方の侍達にとっては、わくわくする歴史物語ではない、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、という過酷で熾烈なせめぎ合いの稜線であり、約500年後の平成の世にも、その熾烈な様相を漂わせています。
 踏査しブログに書き綴ってみて、城坂城は謙信が直に栗林を派遣し、己が領国境の街道と国境線を固める上杉直営の最新鋭の普請技術をもって普請したものと観ます。中条城・累城は、あくまで在地領主の持城を、政虎(謙信)が、飯山城が武田の脅威にさらされるようになった永禄中期以降、飯山落城に備え越後国境を守る意図で強化させた城の姿であると観ます。虎口違い、堀の規模の差はそういったことによると考えます。
 
 終章は黒岩城からお送りします。
 
 参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版