城坂城2-2-2 | えいきの修学旅行(令和編)

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2-2-2 山上郭を断ち切る堀オ、ウ・イと、山上の郭 
 らんまるさんより提供いただいた城坂城概略図をブログ説明用に加筆しながら使用させていただきます。(原図はその1に掲載)
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 街道から侵入した寄せ手は(できた寄せ手は)、2-1-1で辿った郭1への厳重なルートから突入できないとすると、東南斜面を東方向に進むことになる堀オにさえぎられる。城内道は堀オ南東端から堀ウ南部に至る。郭3南斜面から這い上がるのは困難である(私はあがってみたが)。南下方を進めば堀切イが遮る。つまり堀オ、堀イ底に入らざるをえない。堀オ・イは山上を断ち切り、遮断・隔絶するだけではなく、敵の侵入を堀底に限定し、招き込み、頭上挟撃する構想と考える。いぞれも北に抜け回り込もうと進めば、千曲川に落ちる。
 
 Aから城内道を通り、堀オ、堀イへと向かいます。それぞれ手の加わり方が異なり、尾根を掘切るというだけではない機能をもっていたと考えます。山上の郭へは、堀イから入っていきましょう。
 
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Aから郭2南東下を城内道 東方向へ
ここだけ幅広。
郭8南西隅が険しいため、城が役割を終えて以降、通行のため城内道を拡幅したやもしれない。
 
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左側面頭上に郭2
 
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まず堀オが遮る
上方は丁寧にも土塁を沿え、遮りを補強しているようだ。
 私はこれば郭2への竪土塁土橋かと思いここから郭2へ入りましたが苦難のコースでした。土塁はルートではなく堀オの遮り補強でしょう。
 この土塁の削られた箇所から堀オに昇降したかもしれない。また下方にまわり、城内道の中継地に見える平場を経由するのがルートかもしれない。
 
 最後ここに戻ります。
 
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下方、中継地のような平場
 
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 城内道は堀オを越え、郭3南下方をトラバースし堀ウ・イに至る。むろん郭3からの頭上監視・迎撃を受けながら…。
 
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堀オ
入ったところで郭1と郭3に頭上挟撃されるか、千曲川へ追い落とされるか、でしょう。
堀オ底は後できましょう。
 

             
堀イ南下にきました。
 
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城内道は上方左堀ウに接続していたようですが、堀イ底南端から侵入しましょう。
 
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登ってきました。
 右(東)の郭4へは、どう入ったのかわかりません。雪があったので堀が浅くの登れましたが、堀が活きていたらどうでしょうか。
 
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郭3(左)へも堀ウを介し入れるように見えるがかなり急ではある。
雪の底上げを利用して郭4(右)へ登ります。
 
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魅惑的なウとイのコラボ。
後ほど。
 
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東尾根 郭4・5・6
 郭か?郭4は堀イを挟撃するため機能するかもしれないが、5・6は戦闘適用では無いのではないか。
 西からの脅威には無用であり、東は突端で東から登ってくることは困難。北は千曲川の断崖で無理。
 その1では古道を監視と書いたが古道までも距離があり、A東古道は監視はできるが妨害は想定してないと思う。郭5・6(4も?)は、城域外ではないか。機能はあったとしても戦闘適用ではなく、東方向への物見・連絡程度ではないか。
 
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いちおう郭6
 
では堀ウ・イの魅惑的なコラボへ。
 

 
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郭4から堀イこしに郭3
堀ウは南部(左)のみ。
堀ウは南トラバース城内道と接続し郭3への出入口を兼ねていたのか。
堀イからは急で、果たして出入できたかどうか。
 
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曲線と竪堀で奇妙な形をし、堀イに接続している。
 ただの二重堀切ではなく、明快にはわからないが、なにかしらの機能を持ち運用された構造か。もしくは単に、こっちからは入れないぞ、ということか。
北は千曲川に滑り落ちる。
 
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堀ウカーブ上端
 
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堀ウカーブ上端の土塁
郭7が千曲川側に堀ウに沿う。
 
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郭7は何に備えているのだろうか。左(西)に土塁があるようだが。
 
堀ウカーブ上から堀イの両端下方を見てみましょう。
 
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北下方 千曲川
危うく滑り落ちそうになる。
誰に知られるともなくひとり滑り、落ち、流されるところでだった。
 
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南下方
イに危うく接続している。急で危ういので堀イからの出入口ではないのかも。
城内道を右(西)から来た敵を突き落すにはいい。
 
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堀ウ上から東尾根郭4・郭5
 
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やや南からもう一枚
堀ウのカーブがよくわかる。
 

 
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郭3東
一段低い区画がある。
 
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さきの堀ウに沿った郭7
 
堀ウに備える郭か?または堀ウから迎える郭か。土塁が北西に設けられている。
 宮坂先生は『信濃の山城と館8』で、「これは1(らんまる1)の1'(らんまる2)ともよく似ていて、本城の特色ある縄張りである。」としている。とすると郭3への出入り口に関する郭か。
 
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直上から
こっちから敵来ない(来れない)と思うけど…。
出入りに備えるのではなく、米蔵かではないか。小さいが。
 
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郭3(東から)
郭1に向かって(西)に高地がある。その先は大堀切オ、郭1。
これが志村平治『信濃岩井一族岩井備中守信能』によると『上杉家御年譜(1)』からの引用で、永禄7年九月中旬の事として「則市川ニ新塁ヲ築キ 本丸ニ本田右近 二丸に岩井民部ヲ差置カル」とあるところの二丸か。
 
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迫ります
郭1の堀オ法面が凄い。
 
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高地に上がります
物主たちの区画か。高地東は削平され堀割エで区画されている。
 
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 堀エは堀というより高地を区画する堀割りで、なんらかの意図により区画する必要があったのだろう。物主の居住か櫓でもあがっていたか。右(北)にも郭3は高地を取り巻いている。
 
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北下は千曲川ですけど
 
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高地、郭1に向かってさらに高くなる。
郭ではなく、高さが欲しいのだろう。
 
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最高所へ
 
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2-2-1で触れたが、郭1と架橋接続するための高地ではないか。
 
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線なし
 右(北)千曲川側は取り巻いた郭3西端に、堀底を抜けた(無理だろう)敵が回り込むのを防ぐためか土塁で塞いでいたような痕跡(崩落かもしれない)がある。
左は緩く堀オに降りることができる。
 
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高所北下
 
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堀オ側に土塁
堀オを抜けた敵の回り込み侵入阻止であろうか。
回り込めなければ千曲川に落ちるだけ
 
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北回りから堀オ
 
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北から堀オ
緩く降りる高地南下から堀オに降り堀底を見ましょう。
 
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 高地左は緩く堀オに降りることができる。もちろんこの緩い部分は郭1から高所背後から撃たれるし、郭3高地から側面攻撃を受ける。
 
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緩いところから堀オに昇降可能な箇所
緩いといっても、残雪アシストで可能なだけかもしれない。
 しかし右に土橋のような畝があり、畝が土橋もしくは橋脚台か?とも思ったが対岸法面に上る痕跡は見らず、、また斜めライン先に架橋の痕跡も見られない。堀底をあがってくる敵をストップさせる構造か、なにかしらの機能があったかもしれない。
 
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その畝
 
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堀オのピークから先ほど見た千曲川側堀オ北
 
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畝から堀オ下方(南)
敵を誘導しているようにも見える。
 左さきほどの緩い箇所と右側土塁削り部が、互いに昇降部でAからの城内道にも思えるが、残雪アシストがなければ、困難かもしれない。困難であれば、この2-2-2の初めに横断した堀オ下端がルートであろう。
 
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ここを昇降したであろうか
 
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4枚目の写真に戻りました。
 
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堀オ
左右郭1郭3から頭上挟撃を受けるか、千曲川へ追い落とされるか。
 
 城坂城は記事毎に、1-1街道の取り込みと1-2関門。
             2-1主郭1への計画された虎口・郭をつなぐ厳重な導線。
           2-2 山上の大工事によるそれぞれ形態の異なる堀と郭として
             2-2-1 郭1から西、高地を遮断する堀キへ、次いで東の大堀切オ
             2-2-2 山上郭を断ち切る堀オ、ウ・イと、山上の郭
 
 と、テーマ毎に記事を書きました。書き終えてのまとめは必要ないでしょう。
 藪名高き城坂城の様子、伝わりましたでしょうか。
 
 かの藪で名高い城坂城に到達し、ブログにすることができ、感無量です。
 謙信から褒美に鷹之鴈が届くかもしれません
 
 仙当城を訪ねたときは、仙当城が上杉の築いた新塁と思いましたが、景勝期には至らない謙信期の最新鋭の普請を用い街道を取り込み西からの侵攻に備えたこの城坂城が、謙信が栗林に築かせた新塁だと確信しています。
 仙当城も上杉の手が加わっているとは思いますが、謙信が新塁を築かせた戦略目的に叶う城は城坂城でしょう。あるいは仙当城は市川の要害かつ栗林等寄居かもしれません。毛見城から野沢温泉から山伝いで箕作りに至るルートがあったため城坂城と合わせて仙当城も強化し武田(市川)侵攻に備えたのかもしれませんし、御館の乱の後、市川が持ち城として利用としたのかもしれません。
 解けていない疑問も多々ありますが、あるのが当たり前であり、来春4月下旬に再訪し、またあれこれ愚考して楽しみたいと思います。
 現時点での私の調査・妄想による城坂城連載でしたが、山城マニアにお楽しみいただけたら幸いです。
 
ここで締めるつもりでしたが、城坂城の意義を知るためには掲載せずにはいられず、付け足します。
 

  年次不詳6月16日 栗林次郎左衛門宛 謙信書状(上越市史別編1432)
 「急度申遣候、市川寄居成之候間、自然従敵地横合候而者、外見不可然候条、其地ニ少滞留候而、可見届由、籠(小森)沢ニ申越候つる、然処、市川新地之普請出来之由、本田右近かたより申越候間、早々帰上田、可休人馬候、永々陳労重而普請申付、傍輩共苦労大義之由、何へも可申候、以上、
   六月十六日 謙信(花押a)
         栗林次郎左衛門殿」 
 
 市川新塁の普請が始まったと考えられるのが『上杉家御年譜(1)』によると永禄7年、完成が謙信の署名より永禄13年以降。
 
 永禄十年、武田晴信は、市川信房に、信濃越後両国において祖父以来、信房が在所を立ち退くまで拘えていた知行を安堵し、越後国内妻有で旧領の他に三郷を与える判物を発行しています。
 
 信・越両国之内、祖父以来至于在所退出之砌、被拘来知行不可相違候、又越後妻有庄之内、旧領之他三郷出置候、但有被申掠旨者、重而聞合可加下知者也、仍如研、永禄十年卯丁
                                     六月十六日(花押)
                                     市川新六郎殿
 片桐昭彦「越後守護上杉家年寄の領主的展開ー越後・信濃の市川氏を中心にー」に越後における市川氏の影響力・大熊・上田長尾との関係が詳しい。市川氏が、越後に所領をもっていたがそれを失い、武田に従属することにより旧領を回復し、さらに所領を拡大することを志向し、それを武田晴信も志向していました。
 志久見口より越後内に入ったところにある妻有郷と、さらに越後国内深く古志長尾圏内にも、市川氏の所領がありました。(分家かもしれません)
 さらに市川氏の戦国期当主信房は、坂戸城周辺を支配する上田長尾政景の妹を室とし、娘を春日山長尾為景の子直峰城主長尾景明に嫁がせています。
  妻有郷は上田長尾の勢力圏に接します。上田長尾政景は永禄7年に変死しています。武田ー市川ー上田長尾という脈も無きにしも非ずだったのではないでしょうか。
 
 志久見口が謙信の領国を守るために如何に重要か、そしてその志久見口を固める城坂城が如何に重要か。城坂城の姿に顕れていると思います。
 
 最後になりましたが概念図提供いただいたらんまるさんに格別の御礼を申し上げます。悦而、於吾分所傍輩共ニ汁お可振舞候。ありがとうございました。
 
概念図提供 らんまるさん 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
片桐昭彦(2010)「越後守護上杉家年寄の領主的展開ー越後・信濃の市川氏を中心にー」、『新潟史学』、第63号
 『上越市史別編』