城坂城2-1・2-2-1 | えいきの修学旅行(令和編)

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えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

1では古道の取り込みと関門をテーマに辿りました。
2では、城内へと入っていきます。
 
らんまるさんより提供いただいた城坂城概略図をブログ説明用に加筆しながら使用させていただきます。
(原図はその1に掲載)
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私が謙信期の栗林による最新鋭普請として捉えた城坂城の特徴を、あと2つ。
2-1 Aから郭2を経て主郭1へ至る計画された虎口・郭をつなぐ厳重な導線。
2-2 山上の大工事によるそれぞれ形態の異なる堀と郭。2-2-1として郭1・堀カ・堀キ。
 
まずは2-1です。

2-1
Aから郭2を経て主郭1へ至る計画された虎口・郭をつなぐ厳重な導線
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Aには古道・城内道結節地点からカーブし入ります。
 A北西から郭2へ坂を上りますが、その登路に対し郭2南隅が櫓台状に監視・狙っています。その櫓台状の隅を越え、虎口2には右折れで入ります。郭2北西から帯郭
 通路を進み、ほぼ直角に右折れ、虎口1から郭1に入ります。郭2(宮坂1')は郭1の出入り口を守る郭であり、馬出ならびに戸張の機能を担っていると読みます。虎口1・2とも導線となる通路と折れを伴う謙信期最新虎口であり、馬出ならびに戸張機能をもった郭2を介し、それぞれがターン・フックで連携し接続する計画された構想に基づいた普請です。また郭2は西からの古道に対し土塁を備え郭1南帯郭とともに監視迎撃できます。また大堀切オからの侵入に備えた土塁も厳しい普請です。
 
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郭8から、これから私が妄想する2-1をみる。
 
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Aには古道・城内道結節地点からカーブし入ります。
 
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Aから1で見た古道と郭8
 Aは切岸を巡らせた高地であり、街道を監視する重要十分な機能を持っている。郭2を艦橋に見立てると主砲のよう。
 
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郭2へ向かう登路
郭2南隅櫓台下をその櫓台から監視されながら回り込み右折れし虎口2から郭2に入る。
 この登路、左下は古道が通るが、小箕作川までの急崖であり、側面頭上から迎撃され、左下方に滑ろうものなら、小箕作川の谷まで落ちていく…。
 
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登路左下方
うっ、寄せ手はここを落ちていく…。
 
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攻城兵は、味方の銃兵・弓兵に櫓台を牽制してもらいつつ、突入を図るより仕方ないであろうが、この導線を突破するなど、できないであろう。櫓台下を回り込んだら右折れし、郭2の出入り口である虎口2へ入る。
 
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虎口2
左郭2西土塁
右南隅櫓台
 
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虎口2から郭2
 
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郭2内から南隅
高く盛られているので、Aから虎口2への登路を監視する櫓台機能と私はみる。
櫓台から登路写真撮ったのですが、木が邪魔で×。
 
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 線など不要かとも思うが、虎口2入って左折れ、郭2を経て郭1帯郭に主郭へのルート。南帯郭から右折れ郭1の出入り口虎口1。
 Aに入るターン、櫓台ににらまれた登路、右折れし虎口2から郭2へ入り、左折れ、南帯郭を進み、右折れし虎口1から郭1へ。永禄後期もしくは元亀の謙信期上杉の最新鋭の構造ではないか。
 
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郭1と郭2は切岸で区切られ、その切岸からL型に東に大堀切オに沿って土塁が構れられている。
城壁様ではないが、積雪が30~50cmはあるので、容易には昇降できない高さの切岸である。
 
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切岸と土塁でL型
大堀切オはそんな土塁、不要なくらい大ですけど…。
 
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土塁から大堀切オ
 土塁なんて要らないほど凄いが、土塁は対岸郭3からの見通しを遮蔽、さらに堀底に対し迎撃機能を高めているのか?または郭1からの土橋通路か。
 
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切岸ー土塁のL接合部より郭2をみる。
郭2は、Aからの登路ならびに郭1への出入口を守る郭であり、馬出ならびに戸張機能をもった郭と考える。
では、郭1への出入口虎口1へ。
 
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南帯郭がは、通路でもあり、古道に対し敵を監視・制圧する郭でもある。奥西端は堀郭に接属する。
 
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眼下に古道を監視
(城坂城その1参照)
凄すぎる、城坂城。
はやく郭1へ。
 
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帯郭からクィっと右折れ、虎口1
 
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虎口1入って郭1
感無量。
 
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郭1内から虎口1
左が郭2。
張出してはいないが、左右の土塁幅が違う。
 
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ほら
どういう機能(構想)か。
 

2-2-1 郭1から西、高地を遮断する堀キへ、次いで東の大堀切オ
 
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山上の郭、堀切、それぞれ形態が異なります。機能もことなるのでしょう。
 
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郭1西
 志村平治『信濃岩井一族岩井備中守信能』によると『上杉家御年譜(1)』からの引用で、永禄7年九月中旬の事として「則市川ニ新塁ヲ築キ 本丸ニ本田右近 二丸に岩井民部ヲ差置カル」とある。ここ郭1か郭3のどちらかが本丸と二丸であろう。
 
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堀カ
箱状だが浅く、遮断という機能の堀ではないようだ。
底には井戸もしくは天水溜であろう石組が宮坂図には描かれ、らんまるさんブログには写真が確認されている。私は雪で見えず。らんまるさんブログ城坂城http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/450-4e2358da
西に西尾根を遮断する堀キ・西尾根を見張る堡塁状の一郭があり、堀切キが豪快に遮断する。
 
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堀カ南端 
箱状なので端は段差になる。左に虎口1前の郭1南帯郭と接続している。
この段差、眼下を通る古道に対する構造にも思える。
 
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眼下に古道
 左(城内側)約10mに古道を横切る竪堀があり、西(右)から侵入した敵はちょうどこの「下あたりで停止することになる。そこを頭上から撃つ・襲わなくとも何かで退路を塞ぐ、といった機能も考えられるのではないか。
敵がこの斜面を登ってくることは、傾斜がきつく、また頭上に帯郭が並走しており無理だと思います。
 
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堀カとキの間の堡塁状一郭
奥に堀キ
 
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西尾根を遮断する堀キ
うっ
 
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築城者の遮断意図を豪快に顕す。
 
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これぞ謙信の領国を守る堀切
右(北)は千曲川へ
 
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この鋭角法面、鬼気迫るものがある。
武田に対する謙信の鬼気か。
 
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左(南)は古道まで降り下げられている。
 
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 古道に接するが、古道からこの堀底に侵入しても、あの鋭い法面を登れるはずはなく、絶望したところを頭上から撃たれ、堀底で殺されるか信濃川に落ちるか…。
 
郭1にもどり、東側をみましょう。

 

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郭1東面は大堀切オ
 
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北東隅、意図的な突出がある。
 
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突出部手前の堀オ対岸が郭3の最高所で、あるいはここで架橋接続もあったのではないか。
 
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南から大堀切オをみる
高低差があり、架橋は無理か。
 底に土橋とも畝ともとれる盛りがある。しかし、郭1側法面を登った痕跡は見えず、手前南側から堀底に入り込んだ敵の移動を止める畝であろうか。
 
2-2-2へ続く。
 
 らんまる攻城戦記に藪相手に悪戦苦闘の末、撮られた写真が掲載されています。
 堀底の撮影にも成功しておられます。参照ください。
 また馬念さんもGWに踏査されております。あわせて参照ください。
 ちなみに私は4・/20.(この一週後が絶妙な時期ではないか)
 
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
       志村平治(2009)『信濃岩井一族岩井備中守信能』、合資会社歴研