城坂城1(長野県栄村堺) | えいきの修学旅行(令和編)

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                                          城坂城(北東よりみています)                                                                                                      
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戦的な情勢や立地については前記事「越後に迫る武田の脅威」
 北を千曲川、南を小箕作川に挟まれた高地突端にある。城坂城は本地点では千曲川南岸であるが、本記事では北信ー越後における千曲川の位置付けから、城坂城のある千曲川南岸を東岸、北岸を西岸とする。
 
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北は千曲川まで断崖が落ち、寄せ付けない。
山上を写真右方向から千曲川東岸を市川氏掌握地域毛見城方向からの古道が通る。
 越軍制圧下西岸(こちら側)に渡るには仙当城・寄居のあった百合居橋付近(写真左方向)で渡河する(上流西岸には飯山城が健在)わけで、千曲川東岸から志久見口侵入を計る武田勢(市川氏)を押えるには格好の地である。
 
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北東突端
取り付けそうに見えるが、
 
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無理です
 
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南、小箕作川の渓谷を川と山(城)麓わずかな平地を林道が谷奥へ通る。しかし小箕作川も流れは急である。
 
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 現林道は谷奥へ進み山を越えるが、小箕作川が城坂城麓にくびれる箇所で、城内に入る道(↖)がある。このあたりhttp://yahoo.jp/fnn8nB
 現在林道が谷奥から山越へ泉平へ抜けるが、小箕作川が険しければ、この谷の通行も厳しかったのではないか。
 ここで城坂城の山に入り、山上尾根脇を通る道が、千曲川東岸を毛見城方向と志久見郷をつなぐ古道と私は考えます。
 
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古道
城坂城は藪が酷く、私も2度断念しています。
 諸氏のブログも藪の濃さが強調されており、踏査可能時期は4月下旬からGWあたりまでの限られた期間だけと思います。この登り口が藪で封鎖状態でしたら、時期を改めたほうがいいでしょう。
 
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らんまるさんより提供いただいた城坂城概略図の原図です。
ブログ説明用に加筆しながら使用させていただきます。
 私が謙信後期の栗林による最新鋭普請として捉えた城坂城の特徴を以下の三つに絞り辿ります。1-1街道の取り込みと1-2関門。2-1主郭1への計画された虎口・郭をつなぐ厳重な導線。2-2 山上の大工事によるそれぞれ形態の異なる堀と郭。
この3つのテーマでブログを書き進めます。
 

 1-1街道の取り込みと1-2関門          
↓(らんまる図に説明用に加筆)
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 上図、ピンク線(1-1)は城の大手・搦手といった城道ではなく、古道で、城坂城は、この街道を取り込み、街道を監視・掌握・制圧している。まず毛見方面(西)からの西尾根高地は堀オで遮断し、稜線南下方を頭上高く道に面し土塁を備えた郭1・郭1帯郭・郭2で監視・制圧しながら通している。さらに、竪堀(らんまる図では1本、 宮坂図では3本)で制限している。
 そして茶丸部(1-2)A・郭8・堀ア・郭9で街道に厳しい関門を設けている。
 郭8・郭9は堀アに面し土塁を設けており、土塁は堀アを堀底道として警戒する普請と考える。堀ア西端・郭8南西隅で不審者は崖に落とすことが可能である。
 
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東 志久見側からの道
 藪でなければ、しっかりとしたいい道で歩きやすそうである。しかし雪の下は藪なわけで、ズボっと埋まると脛を木にぶつけることになる。
登城路としての城内道ではなく、古道と考える。
右頭上には郭4・5・6。
 
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頭上 郭4・5
 
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雪で古道がわからなくなりますので、堀イ南下端付近より郭10方行をみる。
郭8・郭9へワープします。
 
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郭9から志久見方面からの道推移ルートを見る。
らんまる図郭10・宮坂図ともルートに沿って土塁がとられている。
その下を通り、郭8・郭9間の堀アに入ると考える。
郭8が城内側、郭9が場外側。
 

1-2

ここからが茶丸囲いの関門部。郭9・堀ア・郭8・Aで厳重な関門を成し、街道を掌握・監視している。
 
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 堀ア底 城内側郭8が堀アに対し土塁を構えている。のみならず場外側郭9も堀アに対し土塁を構えている。遠藤公洋が唱える「土塁を伴う浅い堀」の類型ではなく、堀内にいる敵に対する構造であろう。つまり、堀アは通路であり、両側郭が土塁を構えて警戒制圧している。
 
先に郭9を見てきましょう。
 
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堀アに沿った北と、西にL型土塁
 
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堀アに沿った北土塁上から郭9
南下に帯郭が付属する。その下は小箕作川の谷。
 
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うぃ
 
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通路と見立てた堀アに戻ります。
郭9(左)と郭8(右)土塁に挟まれ、間を縫うように堀アを通ります。
 
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堀アから城内側郭8
土塁もあり、通路に対し強固な壁を形造る。
 
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壁面には石積みの痕跡。
これは間違いなく通路であろう。
 
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堀アを西端、落ちると死にます。
 
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郭8南西隅から郭8
郭8へ入る導線が宮坂図にはとられている。
郭8南西隅から郭8へ入るところは、危なく、写真撮れませんでしたので、郭8内から撮った写真を使います。
 
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郭8から堀ア
 
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縫ってきて
 
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堀ア西端から郭8南西隅へ入る
危険極まりないが、ここを通す発想と構造は、街道を取り込み、掌握・封鎖するには絶妙である。
 
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さらに縫うように郭8・A下を通る。
また郭8上は城内道の結節点で東尾根の郭3・4・5・6方向、Aか郭2・1方向への城内道が分岐する。
城内はその2でたどります。お楽しみに。
 
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線なし
 
1は古道を行きましょう。
 

1-1の続き 西尾根へ
 
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城内道結節点から古道西尾根方向
 
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A下を回り込むところから側面
まるで軍艦の主砲・艦橋が聳えるよう。
いやまさにそういった構造だろう。
 
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Aは厳重な関門構造の一部
郭2への導線はその2で紹介します。
 
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西尾根稜線南下方に古道が続く
 
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古道の下方に竪堀2本(らんまる図なし)
回り込みを阻止している…。こんなとこ回り込めるのだろうか。
下のうねうねは小箕作川。
 
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栗林さん、どうやって掘ったの。
 
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頭上は郭2、郭1南帯郭が監視
 
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右頭上側面から長く監視され、迎撃を受け続ける。崖下に落すことは容易ではないか。
中央の倒木のあたりに竪堀が横切る。進みくる敵はストップするであろう。
 稜線上高地には、竪堀線(倒木)と食い違うように約10m西に箱堀カが掘られている。堀カは降り下ってはいない。竪堀と箱堀は、竪堀線でストップするでろう西からの侵入者に対する連携構造であろうか。
 
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西尾根稜線上 箱状の堀カ 2-2で。
 
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堀カから約10m西で、高地は堀キが遮断している。堀キは道まで降り下っている。
堀カとは形状が異なり、機能も異なるのだろう。
 
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城域西端、西尾根高地を遮断する堀キ
2-2でこの堀の凄味を味わってください。
 
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 この先、古道は西尾根を稜線近くに高度をあげ西に続く。いつか歩いて行ってみたい。タクシー、迎えに来てくれるだろうか。
 
   1のまとめ
 
 つまり、稜線高地からの軍勢の寄せを堀キで遮断し、稜線上の郭1、2が、南下方に通る古道を高地から監視制圧している。敵であれば、郭1・郭2で長く頭上迎撃、崖に落すことが可能である。長時間の頭上側面迎撃を突破することは多大な犠牲を払うことであろう。
 さらにA・郭8・堀ア・郭9で関門を設けている。
 城坂城は、城内に取り込んだ千曲川東岸を毛見城方面と志久見口をつなぐ街道を、監視・掌握しているのである。
 
 忘れてはいけない。まだ城内には入っていないのである。城坂城、恐るべし。
 その2では城内へ!
 
 2の内容予定
 2-1 Aから郭2を経て主郭1へ至る計画された虎口・郭をつなぐ厳重な導線。
 2-2 山上の大工事によるそれぞれ形態の異なる堀と郭。
 
 本記事は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版を参考に、らんまるさんから提供いただいた概略図を使用し、書き進めていますが、遺構の読み解きはえいきの私説です。