越後に迫る武田の脅威(城坂城・中条城のウオーミングアップ) | えいきの修学旅行(令和編)

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 景勝、景勝と、景勝ばかり書いてきたので、ここで謙信をいきましょう。
 謙信期の城として城坂城、中条城を書きます。
 どちらも奥信濃(北信)にあり、謙信が武田の脅威に備えた城と考えることができます。
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 城坂城は信濃の最奥・越後信濃境の信濃側千曲川東岸に位置し、志久見口を固める城です。千曲川東岸は、飯山城の対岸ですら市川氏が毛見城を構え、武田の勢力下に有り、市川氏は飯山城攻略を目指す武田の目とし飯山城を監視するとともに、千曲川東岸から旧領志久見郷回復を狙っています。城坂城は、謙信が齋藤慎一『中世の道から読む』で街道警備のスペシャリストとされる栗林二郎左衛門に警戒を命じ築かせた新塁と考えられます。完成は謙信の署名から永禄末元亀以降でしょう(上越市史別編1432)。まさに越後へ迫る武田の脅威に謙信が備えた城です。
 また、中条城は北信に唯一残った謙信の拠点飯山城よりも越後に近く、飯山城の北西約4.5km越後国境を背にした丘陵地帯先端に位置します。飯山城は謙信の北信濃における拠点と云う機能だけではなく、永禄11年には越後侵入を目指した晴信率いる武田本軍によって一大攻勢をかけられるなど、武田の脅威に晒される最前線でもあり、よもやすると落城の危険があります。そのため飯山落城時に備え、武田の越後乱入を防ぐため、中条城の南西約2.5kmに位置し越後との主要幹線飯山街道を守る山口城などと共に外様衆の持城を永禄後期以降に謙信によって強化された城であろうと考えます。
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黒岩城から飯山城周辺の甲越の境目を見る。
 
 奥信濃は、景勝期になると甲越の脅威の接する地帯ではなくなります。謙信が死に勃発した御館の乱において、景勝と勝頼が同盟すると武田領国となります。景勝・勝頼は唯一無二の同盟者として、奥信濃で互いにせめぎ合っていた力を、西から迫る織田、関東の北条の脅威に備えることになります。
 
 天正10年6月、本能寺の変で信長が斃れると、景勝は北信に進出しますが、7月にはすでに海津城まで進出し、敵対勢力との境目は奥信濃ではなく、更埴ー青柳ー仙見ー越中松倉へと移ります。よって、奥信濃の諸城は、本能寺の変以降、進出時一時的な改修、もしくは還住した信濃諸将による整備はされたかもしれませんが、要害として軍事的強化改修する必要のない地帯になります。よって城坂城、中条城は、謙信期の要害の姿と考えることができると思います。
 
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千曲川の断崖に臨み、東岸からの侵入を押さえる城坂城
対岸(こちら側)上流には飯山城が在る。
 
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この城、街道を取り込んでいる。これを見た時、私は栗林が築いた新塁は、城坂城だと確信した。
 
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の堀の凄味、謙信の領国境の凄味か。
 

 
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中条城
(外様小学校跡から)
外様衆の持城。
 
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外様衆、こんな堀は持ってなかったと思う。謙信が、飯山落城に備えて掘らしたんじゃないだろうか。
 
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甲越のせめぎあいは、胸躍る歴史物語ではなく、熾烈な殺し合いである。
 

城坂城、中条城を書くための前置きが長くなりました。
長くなりましたついでに、武田の脅威が越後に迫る平倉城・信玄城を紹介します。
 
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 永禄4年の第4次川中島合戦以降は、越軍が川中島(善光寺平)に押し出すことは不可能に近い情勢だった。
 
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平倉城
上杉に拠った飯森氏が、弘治三年(1557)山県昌景の侵攻に一夜山城から後退し籠城した。
 
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 抗戦するも飯森春盛は討死し、平倉山城は落城。傷つき捉えられた男達は、ここ切った屋敷で斬られたという。(現地説明板)戦国の習いとはいえ、武田の仕打ちの酷いこと。
 飯森氏の男子は、女装し老婆に男根を又から後ろへ回して押さえられ検分を逃れ命をとりとめたと伝わる。
 
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飯森春盛の墓は、玉泉寺にある。
しかし、昨年の地震で墓石は倒れており、武人の名誉を慮り、掲載は見合わせます。
 
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 越後の援軍も平倉城救援に向かう。地蔵峠を越えたところで貝を吹き来援を知らせるが、飯森春盛は討死、平倉城は落城してしまった。
越軍が地団駄を踏み悔しがった地を地団駄という。
地団駄より平倉城を望む。
 平倉城は、越後糸魚川の根知に至るいわゆる塩の道と、雨飾山をまわり越後の妙高杉の沢へ続く街道の分岐点でもある。武田がここを落としたことで、武田の脅威は根知口から越後に迫るとともに、妙高にも迫ることになる。
 
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新潟県妙高高原町と長野県黒姫町を分ける現在も県境の関川。
長野県側に信玄城。
川のこちら側は新潟県妙高高原町杉野沢
武田の勢力圏は、ここまで迫っていた…。
 
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関川の断崖に臨む他は要害性はさほどないが、不気味さは漂う。
 
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奥に社
 要害というより、街道監視・繋ぎの砦であろう。しかし、善光寺背後葛山城から戸隠を経て妙高に至るルートと、小谷から妙高に至るルートが武田の影響下に繋がり、大軍の侵入は困難な道であったかもしれないが、謙信本拠である越後頸城郡の妙高にまで武田の勢力が迫っていた事実は、上杉方にしてみれば、笑みなど消える状況であったことであろう。
 
参考文献 上越市史別編
柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院
斎藤慎一(2010)『中世を道から読む』、講談社現代新書
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館7』、戎光祥出版
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
平倉城・塩の道古道現地説明板