直峰城1(新潟県旧安塚町安塚) | えいきの修学旅行(令和編)

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直嶺城
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慶長2年頸城郡絵図
 
  頸城郡北東域の城として、頸城郡絵図に古城として描かれている町田城、描かれていない雁海城と書き綴ってきましたが、最終回は直峰城を書きます。
頸城郡絵図には直嶺之城として描かれ、絵図中の32ヵ村に城領としての知行を持ちます。上越市史によると城領とは「領国支配の有機性・機動性を支えるために上杉氏が設定したもので、公領としての性格をもち、大名や家臣の個人的所領とは明確に区別されるものである」(p.530)としている。
城内には建物が建ち、城下には城下町が賑わい街道が通る。春日山と妻有、上田の庄を結ぶ中継地として重視され、慶長2年段階においても景勝政権中枢による領域支配の拠点城郭として機能した城である。
 
 直峰城は御館の乱当初は景虎方であった(景勝一代記)ようだが、景勝方が奪取し、天正6年9月関東から三国峠を越え越後に乱入した小田原北条勢に対し、信濃志久見口から妻有に罷り出た甲州勢と連携、坂戸ー犬伏のラインで備える戦略の一環として「次人脚之事、直嶺へ申付候、…」(上越市史別編1683)とその支援を申付けられている。
 景勝は11月11日小日向隼人佐に宛て「今度在直峯地、相稼之事、神妙之至候、(後略)」(上越市史別編1717)、12月1日山田彦右衛門尉に宛て「今度忩劇之処、有直嶺之地走廻事、神妙候、(後略)」と感状を与えており、直峯城付近でも戦闘があったようだ。
 
 天正12年11月24日には、直江兼続の父樋口元兼に「就直嶺在城申付、(後略)」と在城を申付け、以降元兼が景勝政権中枢の意を受けて城将として在番した。
 
 直峰城は、謙信時代も機能したであろうが、御館の乱で景勝方の城として戦闘が行われ、後、景勝政権中枢による領域支配の拠点城郭として慶長2年まで機能した城である。天正期上杉の近代的普請を考える上で重要な遺構である。注:景勝が会津移封後、堀による改修があったかもしれないことも加味しながら見なければならない。
 
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その1では、駐車場から大手と考える南尾根伝いに山頂主郭を目指します。
 
では、行きましょう!
 
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城内駐車場
トイレ裏に進むと南城壁下を通り、二の曲輪へと至る。
 右、城壁前を通り南尾根の土橋から倉刈門を経て、居住区域と考えられる郭群を経て山頂に至る。こちらが大手と考える。南尾根から登ります。
 
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左、城内側城壁とで大手の防御線を構えていると考えるが、だれもそうはとらえていない…。
奥に土橋。
右、段差あり。
 
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城内側城壁様切岸
 
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右は段になっており、郭区画としての削平地かもしれないが、登らせないための段差普請かもしれない。
 
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南尾根上は土橋となり、左城内と右城外側・観音堂と接続している。
 
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尾根上にあがり、城外側をみる
土橋で接続。ここが実質的大手の城内外の区分けであろうと私は思う。観音堂より外は三ノ郭群。
観音堂、三ノ郭群は略します。
城内へ向かいます。
 
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土橋から段構造を見下ろす。
 
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ルートは土橋から城壁を越え、突き当り、左に折れる。
 
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城壁
 
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内へ
右、頭上郭から監視を受けながら進む。先に倉刈門。
 
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倉刈門
これも、だれも指摘しないが、上杉板枡形と読めるのではないだろうか。
 
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通り過ぎて振り返る
左上、郭からも頭上監視うけている。
枡形にみえませんか。
 
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上写真の左切岸上の郭から枡形をみる。
枡形で屈曲する織豊の桝形とは異なるが、上杉板枡形と私はみる。
越中桝形城、雁海城にもこのような織豊の桝形と異なる枡形様構造がある。
 
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越中桝形城
 
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頸城雁海城

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その倉刈門を抜けると、南郭群で、居住郭群が集まる区域になります。
なんたらの守とかは、気に留めないでいきます。
 
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郭が郭を監視、掌握できる配置になっている。
 
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倉刈門を頭上側面から監視する郭
 
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気にしない
 
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頭上側面監視を受けながら、適度に屈曲し、登り進む、なかなか考えられたルート設定に思える。
 
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居住区域というだけでなく、行政区域とでもいうべき機能があったのではないか。
 
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藪化しているが、後方、高位に郭が組み合わさっている。
 
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なかなかいい屈曲
 
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山頂主郭が眼前に見える。
見せるせ意図もルート設定にあったかもしれない。
 
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しかし、屈曲し見失う
攻城兵は挫けそう。
 
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屈曲登路を抜けると主郭が再度見える。
左、尾根上は箱堀のような郭のような造作。
 
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箱堀のような、郭のような
 
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少し引いて
左が山下方向。
 
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主郭切岸下、あたり、左に折れる
 
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折れると城戸か
 
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左、張出気味に城戸を守る番所のような削平区画
 
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突破し、振り返る
私は城戸と観る。
これも上杉の戸張ではないか。
 
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もうすぐ主郭
左下は南大城壁
 
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大城壁
 
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下から南大城壁
 
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主郭南西下腰郭に至る
主郭へは右上にクィっと折れ登る。
 
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腰郭とはいっても建造物が建ちそうな広さと、しっかりした削平。
山上の重要な郭である。
この腰郭、北西部で堀底通路で北腰郭に接続している。
 
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主郭へ折れ登る
 
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山上手前で左に折れる南虎口
春日山城山頂などよりも手の込んだ虎口構造。
 
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折れは、桝形で折れる構造か
とすれば上杉では最新、もしくは堀の改修か。
主郭内から、ここには入れないぞ、と必死の迎撃をうける。
 
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山上へ
 
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南虎口を振り返る
 
 天正期上杉の普請では、内枡形状の堀込み出入口を設ける構造はある。直方体内桝形から逆四角錐台形、鍵穴型の大型化、側面櫓台で守る構造、織豊似の枡形様など、上杉独自の発達を遂げている。しかし、桝形で出入がくい違う技法はみることはあるが、折れる構造はここ直嶺城だけではないか。
 上杉の最新虎口もしくは、堀の改修虎口か。
 
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直嶺城山上主郭西部
西端にも虎口があり、北腰郭に至るルートが設けられている(後ほど)。
 
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西部から主郭
周囲、鋭い切岸、東西は堀切(東は大堀切)、北・南切岸下に腰郭を備えた堅城である。
 
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北眺望 正面に米山
 
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主郭中央部
奥は東端
 
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主郭東部
 
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主郭東端
犬伏城看板の左下に大堀切
 
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犬伏城方向
犬伏城、あれかな、と思う山はあるのですが、確証ないため記しません。
 
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主郭東大堀切(その2で)
 
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主郭 東から
写真中央奥建造物の右脇に西虎口
 
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西端 北に向かって虎口
 
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西虎口
改変かもしれないが、こちらも桝形を構え、桝形で折れ、北に開口している構造ではないか。
 
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石積の痕跡か
 
その1はここまで。
 
参考文献 上越市史 上越市史別編  遺構の読み解きはえいきの私説です。