直嶺城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 
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 その2では山頂主郭から付随する山上の郭群の北腰郭・蔵跡・二の曲輪、背後の北東尾根の大堀切・細尾根ルート、西尾根の段差普請・大箱堀を辿り、南大城壁下を通り駐車場へと戻ります。私が直峰城で特に魅かれたのは西尾根の段差普請・大箱堀です。じつはこの遺構をみるため写真を撮りにいきました。
 
では、Go!
 
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山頂主郭西虎口
 コンクリ破壊により旧状はわかならいが、現状では桝形が北に開口しており、桝形で折れ、主郭堀込に接続している。上杉普請とするなら、最新の出入口構造である。
○:色部加護山要害、荒戸城に出枡形で直角に折れる虎口がある。
 
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急なSルート
桝形により直上、主郭により右上(上から)監視されている。
位置付けとしては搦手か。
 
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主郭西下腰郭に接続している
 
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大けやき近くに降りるが、このルートも主郭から頭上監視を受けるなかなか厳しいルート。
 
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大けやき
大家健『図説中世の越後』によると樹齢800年。戦国期も生きていたことになる。
写真左後方に西腰郭が伸び、写真右上方に進むと主郭東直下の大堀切・北東尾根に至る。
まず大堀切・北東尾根見てきましょう。
 

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じつは8月は草で撤退
 
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4月末に再訪
小学校5年生頃に来たような。
 
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直嶺城主郭北東下大堀切
左、下方は竪堀となり降り下る。
 
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なかなか
 
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北下方、降り下る竪堀
 
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南は崖
 
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南から堀底
左が主郭側
右が東尾根
 
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堀底から主郭
大面城も凄かったが、直嶺も凄。絶対登れません。
 
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堀底から東尾根
高低差があり、主郭と架橋は無理であろう。
堀底から昇降。
 
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東尾根
細尾根ルートとして機能していたようだ。
 一騎駆けをさらに障害し、城兵の楯となりそうな、もしくは城兵が上に居れば見張り迎撃場となりそうな高台が設けられている。
 
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一騎駆け(駆けれません)の細尾根
大けやきに戻り、主郭に付随する山上郭群、北腰郭・蔵跡・伝二の丸へ向かいます。
 

 
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大けやきの前から北腰郭
奥、斜め右に蔵跡。
斜め左に堀底通路で南腰郭に接続する。
主郭城壁下に付随し、主郭から監視を受ける。寄せ手は常に頭上攻撃にさらされる。
幅は広く、通路としてだけの幅でない。蔵跡とあわせ籠城時物資の集積が可能であろう。
 
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斜め奥に伝蔵跡
蔵跡には虎口が設けられている。
斜め左に南腰郭に接続する堀底通路。
郭と郭が機能的に接続連結されている。
 
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腰郭間を接続する堀底通路
左上は主郭
堀底段差普請を伴う、天正期上杉の構造であろう。
 
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箱状堀底通路
 
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南腰郭に接続
 その1で紹介したが、腰郭とはいっても建造物が建ちそうで上越市史中世史部会(2004)発行『上越の城』では二の丸としている。
 
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接続としたが、じつは段差の落差がかなりあり、二の丸側から登ることは不可能である。
箱か台でもおいて接続していたのではないか。
 西虎口から出撃した城兵が飛び降りて(南から寄せた敵は、この段差をのぼることができない)、南虎口へ向かう敵兵の背後を襲撃、主郭内城兵とで挟撃する用途ではないか。
 
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伝蔵跡へ
虎口で現地標柱伝二の丸に接続。
 
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蔵跡から北へ松崎へ至る尾根が派生する。
 
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伝蔵跡
桝形虎口を備えた重要郭
 上杉の主城部構造では、主郭・主郭直下に食糧や金など重要物資を確保する曲輪を設ける場合がある。先の腰郭とあわせてそういった機能をもった郭で、これらを合わせて実城域であろう。
 
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蔵跡虎口
形態は逆四角錐台形であろうか。
主郭の南・西虎口は桝形で折れているが、ここは他の上杉虎口同様、桝形で折れていない。
 
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虎口下、伝二の丸に至るルート
途中水場がある。
 

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現地標柱では伝二の丸となっている郭。大家健『図説中世の越後』では郭井戸。
 南(左)・段状に郭群。
 西尾根派生部に土塁。西尾根は細尾根ではないため、大箱掘を堀り、さらに堀切を多重させ、侵攻・展開を妨害している。またこの土塁を遠藤公洋は「戦国期越後上杉氏の城館と権力」のなかで以下のように注目している。
 
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西尾根派生部
 遠藤は「身長大の土塁が郭P(=伝二の丸)を遮断するように設けられている。大規模な箱掘による尾根の切断と土塁による遮断が有機的に結合している点を確認しておきたい」(遠藤 2004,p.51' 括弧内引用者)と注目している。
 
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土塁横、西尾根ルート(城道かはわからない)を迎えている。
 
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西尾根ルート
道ではないのではないか。
左高地・西尾根上は堀切が多重に設けられている。
 この道を通って侵入できれば、尾根上の多重堀切造作の意味がない。むしろ尾根上からこの道を監視掌握すればいい。
 
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西尾根上を遮断、展開を阻止す堀切
もう一本の箱掘との間は畝状に刻まれている。
畝状空堀群が旧態で、土塁・箱堀による構造がの改修であろう。
 
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近づいて
箱掘
 
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もう一本の箱堀
 
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降りていくと、右取り付けそうな地形となる。
 そしてこの地形に段差普請が施されている。私の2014年の訪城(この写真撮影時)は、これを確認したくて行ったんです。
左高地は西尾根上。
 
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その私が確認したかった段差普請
この写真だとよくわかりませんが、下からの写真だとよくわかります。
 
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上写真の段差左にはきれいに削平された平場がある
 藪で断念しましたが、ここから西尾根を登る城道、もしくは南西斜面をトラバースする城道があったのかもしれません。段差でルートを限定し、見張り、ここに侵入者を集めたのではないだろうか。
 
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段差普請を下方南から
 これ、どういう機能を持ちどのように運用されたよくかわからないが、景勝直臣が配された、景勝政権による領域支配の拠点城郭に見ることができる。
 
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もう一枚、下方北から
この撮影地背後に降ると、大箱掘
 この段差構造に興味をもち、ここを訪れる人など1年に何人もいないと思いますが、その希少な企みを企てた方は、ぜひ大箱掘もみてください。ちなみに私が騒いでいるだけで、段差構造、大箱掘に注目している論文・インターネット記事はみかけません。
 
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 諸氏の縄張図には描かれていないので、最初、堀とは思わなかったのですが、ハッと大きな堀切じゃないかって、脳に閃光が走りました。
 
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大堀切、しかも大箱掘ではないか
 
 直嶺城は、天正期のある時期、西尾根が大改修され、この大箱掘が普請された。
それは西に脅威があったことを意味する。御館の乱の最中かもしれないが、緊急改修では、この工事はできないだろう。景勝政権中枢によって意図され改修されたものだと考える。時期は、やはり御館の乱終結後、織田の脅威が去る本能寺の変までの間だと思う。
 その後、この付近は安定地帯となり、樋口が在城する頃には軍事的な強化改修は不要であろう。この大箱掘の普請を要求した西の脅威は、織田勢、しかも春日山城を落とした織田勢ではないか。
 

 伝二の丸から南大城壁下をとおり駐車場へ戻ります。
 
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伝二の丸南下 段状の郭群
 
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草で踏み込めないので、眺めながら通過
 
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遊歩道脇に清水湧出
 
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下方にも郭があり、
1で辿った南尾根大手以外にも南大城壁下を回り伝二の丸へ至るルートがあったと思う。
 
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南大城壁下へ
 
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大城壁下に池
 
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池背後、南大城壁
 主要部大城壁下を通すルートは、栃尾城、与板城、春日山城(春日山は意味が違う)など、景勝政権中枢が入った城にみることができる。
 ただこれは近代的普請にはあたらないかもしれない。
 
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栃尾城
 
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南尾根も天空に舞う
 
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駐車場へと至ります
 
 まとめます。
 このように慶長二年頸城郡絵図に描かれた直嶺城は、山上の要害主要郭は機能的に連結し、居住区域・政庁区域(南郭群)も山下ではなく山内にもつ。主郭は切岸城壁で鋭く立ち、帯郭・大堀切を配す。南尾根・大手ルートは切岸城壁・土橋による防衛線を構え、居住区域・政庁部関門には枡形様の倉刈門を配置する。山上主郭に至るルートも屈曲、郭によって監視され、また随所で山上の威容を目の当たりに見せつけられながら進ませられる。途中、尾根上は箱堀状にみえる造作もあり、戸張の可能性もある城門さらに、枡形で折れる虎口を経て主郭に至る。蔵跡、主郭西の出入口にも桝形を構える。幅広の西尾根は多重堀切、大箱掘、段差構造で寄せ手の侵入・展開を阻止している。
 謙信時代も、謙信居城春日山城と妻有・上田庄そして関東へと至るルートの中継地として機能したであろうが、今に見る直嶺城のこれら構造は、天正期上杉の近代的普請であり、御館の乱・織田の侵攻といった軍事的緊張時を経て、景勝政権の領域支配の拠点城郭として政権中枢によって改修された城の姿である。
 
○主郭虎口は景勝会津移封後に入った堀による改修かもしれないが、他は景勝期上杉によると考える。色部加護山要害、荒戸城、高柳城の枡形で直角に折れる虎口があるが、これらは出枡形で直嶺城主郭虎口とは異なる形態と考える。
 
 この地域は通説が大きく覆い、謙信や風間信濃守?が持ちだされがちであるが、直嶺城は景勝政権の領域支配の拠点城郭としての意義がもっと強調されるべきだと私は思います。
 
参考文献 上越市史別編 上越市史 
       遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
       大家健(1998)『図説中世の越後』、野島出版