南尾根・雨引城方面は、景勝期上杉がもっとも警戒し、大岩城とともに厳重に改修した方向と考える。
堀切キ・クで、二重の遮断線を設けている。
えいき私説ですが、郭3から城内に至るルートは、畝状空堀群に遭遇し(城戸もあったかもしれない)、郭1頭上攻撃を受けながら右折れ、キ堀底を通り、左折れ、平場Cへ、その先は上方を郭1、下方を畝状空堀に挟まれた一騎駆けトラバースルート。そのルートは、正面土塁胸壁から狙撃される、という厳重な防御構想をもって構えられていたと考える。
城内から辿ります。
帯郭南端を塞ぐ土塁
際が切れている。
ここに、南尾根から接続するルートが入っていたと考える。
南尾根にも郭3・堡塁があり、見張りや守備兵はいたはずである。見張り程度でも守備兵がいれば、収容するルートが要であろうが、南尾根から西斜面には畝状空堀群が施設されていて接続できない。
とすればここしかない。
二連畝状空堀ケがあるが
その上端を通り、平場Cに至る。もちろん右頭上は郭1から監視されている。
二連畝状空堀ケ
平場C
遮断なら平場など要らない。
この平場、ルート中継地点であろうが、寄せ手のキルスポットではないか。
端は大堀切キに接する
対岸の南尾根・郭3もほぼ同じ高さに段があるようで、架橋していたようにも見える。
しかし、私は大堀切キ底に降り、主郭南土塁直下を通していたのではないかと考える。
景勝期普請と考える中越椿沢城・頸城黒田城・越中水尾城では、主郭背後直下堀底を通している。
ちなみに、この平場にまで南から敵が侵入したとする。
直上は郭1で、ここに敵が居る自体、極めて厳しいと思うが…
平場Cから振り返る
この平場Cは、左頭上郭1から狙われているうえに、帯郭南端土塁が塞ぎ、かつ迎撃兵がその土塁を胸壁とし、この平場を弓・鉄砲で狙撃する、と考えるとどうか。(距離は10m未満)
左頭上には郭1、右下には二連畝状空堀ケ。
さらにこの一騎(一人)駆けトラバースルート(10m未満)を突破できるか!
大堀切キ底へ
堀底を通していたように思う。
東は畝付きの豪快な竪堀となり降る
大堀切キ東 豪快な竪堀は畝を伴う。
しかし、これは信濃の多重堀切(須田もしくは武田時代の構造)と同様かもしれない。
郭1南土塁から見た堀キ底
ここを通したと仮定する。
大堀切キ西端
こちらは右に二連畝状空堀カを伴い竪堀となり降る。
左、道跡に道に見える段がある。
架橋ではなく、堀底を通ったとすれば、先ほどの平場Cとここが接続していたと考える。
この付近、石の造作がある
城戸でもあったのだろうか
南尾根郭3へ、こう接続していたと思う。
南尾根から侵入した敵には、
これに遭遇し(城戸もあったかもしれない)、右折れ、キ堀底を通り、左折れ、郭1頭上攻撃を受けながら平場Cへ、その先は上方を郭1、下方を畝状空堀に挟まれたトラバースルート。そのルートは正面土塁胸壁から狙撃される、という厳重な防御構想が待ち構えている。
大堀切キと二連畝状空堀カとの饗宴
南尾根・郭3北部
南尾根南部
奥・南の雨引城方向には、もう一本遮断線となる堀切クが艶やかに厳しく設けられている。
左・謙信道に接する方向には南東尾根が派生する。
南東尾根
踏査していない。
宮坂図をみると東尾根同様に笹曲輪状の段が多数設けられている。
堀切ク
これほど美しい堀切も、そうないのではないか。
艶やかに美しく遮断している
端は竪堀となり降り下る
ごつごつと岩尾根
これもまた私の喉から胸にごつごつ入り込む。
高地を宮坂先生は堡塁とし、南限としている。
堡塁先(南)、雨引城方向。
その3まとめ
雨引城に至る南尾根は、堀切ク・キの二重の遮断防御線を設け、厳重に警戒している。
ルートは大堀切キ底を土塁を設けた主郭南面直下を縫い周し遠し、土塁迎撃ポイントを設け、防御構想をもった普請を行っている。堀端・斜面には回り込みを阻止しルートを制限する畝状施設を設けている。それは景勝期上杉の改修と考える。
武田時代は敵は北方越後から謙信道を灰野峠に迫る越後勢であり、武田時代の普請は謙信道に接する尾根に笹曲輪状の段を多数設け厳重に警戒しそいる。(その1で記述)
天正10年本能寺の変以降に北信に進出した越後上杉景勝にとっては、敵は南方甲斐信濃から灰野峠に迫る勢力である。大笹街道もしくは万座道から真田を尖兵に北信を狙う北条・徳川勢が、景勝の想定敵であろう。小笠原との境目の前線は坂城から麻績方面(麻績青柳城まで直線約38km)。この大岩・月生・雨引城エリアは竹の城とともに、真田が景勝に帰順する天正13年まで、警戒を怠ることのできない地域であったと考える。
普請技術レベルも時代情勢も私の読み解きに一致すると考える。
周辺図(yahoo地図に加筆)
拡大(yahoo地図に加筆)
南(地図下)から灰野峠に迫った場合、雨引城が背後を守ってはいるが、小城であり、大軍相手に籠城抗戦するには向かない。雨引城を落とした敵は、逆落としに月生城、大岩城に迫るであろうが、両城とも南尾根には大規模な遮断・防御線を構築し厳重に備えている。突破は難しいであろう。とすれば灰野峠を西から北に迂回し山麓から攻囲することになる。その方面の攻め口は、こってり紹介した尾根筋か、大岩城大手か、大岩城と月生城の間で、どれも厳しい。もたもた攻囲していれば北から越後上杉本軍が現れ、背後から襲われることになる。
大岩城・雨引城・そしてこの月生城の三城、今でこそ北信の小さな局地でしかないが、大岩須田氏を助けようとした長尾景虎が進軍し、景虎が退くと(弘治三年から永禄初頭)武田勢力下に、天正6年以降は北からの越後上杉景勝勢力下にと、寄せて返す時流と勢力の波に揉まれた歴史を漂わす魅惑の局地です。この北信の局地に、謙信・信玄・勝頼・信長・景勝・昌幸・氏政・秀吉・家康といった大局の武門の大将達の盛衰が影響しているということ(私がかってに妄想しているだけかもしれない)も魅惑を増しています。
観光地のように騒がれることは望みませんが、風土を歴史を愛する人々にもっと注目されていい地域だと思います。素人の修学ですが、大岩・雨引・月生に魅惑され、憑りつかれ、力作しました。
大岩・雨引・月生城をこっそり愛する人が増えることを祈ります。
月生城北東麓 上野を、第三次川中島合戦における上野原合戦の地と推定する説が、か細くある。
私もそう思う。いずれあらためて。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
湯本軍一監修(2007)『探訪信州の古城ー城跡と古戦場を歩くー』、株式会社郷土出版社
構造の読み解きはえいきの私説です。