須田城(臥竜山城)
須田城は、大岩須田氏の分家で須田郷を領した須田氏が、室町時代に築城したという。
大岩須田氏をこってり書いたので、こっちの須田氏を書かないと片手落ちになるでしょう。
武田の信濃侵攻の際、こちらの須田氏、信頼・信正親子は、武田に属した。武田が滅び、信長が本能jの変で斃れ、北信に進駐していた森が退くと、変わって南下北信を制圧し支配下に置いた越後上杉景勝に属す。しかし信正は天正13年5月、景勝によって誅された。宮坂本では『長野県町村誌』からの引用で福島城にて島津忠直に襲われ死す信正討死の状況を記している。「(前略)左衛門尉(信正)城戸を開き突出、忠直の足軽大将武藤団兵衛と戦い互いに死し、(後略)」(括弧内引用者)
搦手筋を掘り切る堀アに架かる観音橋
搦手ルートは、観音堂のある郭から堀直虎公廟所背後を通り南から主郭へ至る。途中、南から西の城の鼻に回るルートと、また主郭北下の横堀状帯郭で大手筋と連絡している。
大手からのルートは岩屏風のような城門城壁を抜け郭3へ入り、郭2脇を通り、折れ、主郭・郭1と郭2との間の堀中道を通る。
堀中道は迎撃する城方の武者隠しにもなり、また先で枡形経由で右折れし主郭北東腰郭へ抜ける。その間、郭2・郭1から頭上横矢挟撃を受ける。また堀中に入らず、主郭南西腰郭を通り城の鼻へ接続するルートもある。
上図右上 搦手筋・観音橋から城内へ入ります。
墓地中を抜け、観音堂へ
時間や天候によっては怖いかも。
観音堂
観音堂先は須坂藩堀家の墓域
奥の建物が須坂藩13代藩主堀直虎公廟所。
その背後、高所が須坂城主要部。
直虎公廟所高地手前に左右に竪堀
左竪堀
右 竪堀イ
こちらは上方からのもう一本と合流する。
北面は、防御に意を用いている。
須坂藩13代藩主堀直虎公廟所
右に進みます。
土塁道で帯郭にあがります。
帯郭は北西で大手ルートと接続します。メインディッシュなので後ほど。
まずは搦手ルートから城域南部を見てきます。
帯郭接続部手前に竪堀
下方で先の竪堀イと合流する。
帯郭接続部
魅かれますが、後で。
上方、折れ部が桝形から腰郭へ接続する虎口付近。
廟所を背後を通り、城域南部へ
右、遊歩道上がると北東腰郭から主郭
まっすぐっ進むと南帯郭を回り、城の鼻へ至る。
北東腰郭へ
主郭北東腰郭
大手ルートも写真奥に堀中道を通り左から折れ入り枡形を経て接続する(後ほど)。
南下腰郭にも接続している
南下腰郭
南下方に広くもう一段
南を回り込み、南端城の鼻
城の鼻には大手からも堀中道を通らず接続するルートがある。
主郭へ上がる道もある。
城の鼻 端
城の鼻から郭1へあがる道
(他に遊歩道もある)
では直虎公廟所裏分岐に戻り、帯郭から大手に向かいます。郭3へあがり、堀中道を経て主郭へ入ります。
帯郭
上方折部は枡形から腰郭へ接続する虎口付近
そのライン、帯郭から竪堀ウが降る
起点には石補強
帯郭から竪堀が降ることから、宮坂先生は、この帯郭が横堀状になっていた可能性を指摘している。
竪堀ウ
たしかに横堀にも見える
武田の横堀と放射状竪堀か。
振り返る
北西、大手筋と合流する
崩落部さきに竪エ
大手筋との合流点
大手筋・郭4は、ラストで。
大手筋からみる岩屏風のような城門城壁
なかなかの威容。
左(東)右(西)二筋、郭3へ至れるようだが、宮坂図では右(西)を通している。
郭3
高地は郭2。
ルートは右(西)まわり。
左(東)まわりは、桝形(後述)部が張出し、石塁で塞がれている。
左まわり、郭2横矢の先、張出石塁で塞がれている。
張出し塞ぐ石塁
設定ルートへ戻ります。
右まわりルートへ
郭2から横矢を受けながら進む
左に堀中を通るルートがあるが、見通せず、武者隠し的空間になっている。
道・桝形というだけでなく、武者隠し的意図を読み解く宮坂先生はさすがだ。
西端腰郭伝いに城の鼻へ至る別ルートもある。こちらは郭1から監視を受け横矢が懸かる。
西腰郭伝いに城の鼻へ至るルート
城の鼻は先に紹介しましたので行きません。
西面は急崖
冒頭の全景写真でみている面。
では堀中道へ
郭2南西脇の腰郭から
堀中道こしに郭1
郭2と郭1の間を通る。
堀中道
郭2と郭1に挟撃されながら進む。
先に桝形
形を経て右折れ。
桝形は石積で補強された強固な土塁で形造られる。
右 主郭へ至る腰郭へ虎口で接続する。
奥 土塁・斜面下に搦手筋と大手筋を連絡する横堀状帯郭。
左 ちょうど張出す形になり、郭2東脇を塞いでいる。
左 張出し、郭2東脇に横矢を掛ける。
桝形というだけでなく、ここから迎撃できる構造。武者隠しとした宮坂説の慧眼。
しかしこの張出構造、いつの時代のものか。
奥 北東土塁直下
搦手筋と大手筋が連絡する横堀状帯郭を監視。
右 虎口で腰郭へ接続
虎口から腰郭へ入って振り返る
土塁が強固。
石積で頑強に築かれている
堀中道ー桝形ー虎口へと折れるルートを、より際立たせている。
土塁に拠り、待ち構える
帯郭側も強固な土塁
切口は竪堀としている。
出撃口の可能性もないだろうか。
この付近の構造は、越後荒戸城と時代的に近いのではないだろうか。
小牧長久手(天正12年)あたりの上杉の改修か。
郭1から監視されながら腰郭を通り、先で、先に紹介した搦手から南回りのルートと合流し、主郭へ上がる。
南東隅から主郭へ
城の鼻からのルートも対面するように入ってくる。
須田城主郭
右(北)奥尖った先に堀中道が通る。
郭1北端
しっかりルートを監視
敵は、屈曲し、速度低下、郭2・郭1から挟撃を受けながら通過しなければならない。
郭2を敵は獲るだろうが、郭2は郭1から監視されている。
郭2よりも郭1のほうが高く、また郭1に対し身を隠す土塁などもない。
折れ、虎口城戸前で停まり、桝形に留まる。
そこを撃つ(射る)。
須田城主郭(北から)
大岩城・月生城の困難さに比べ、遊歩道も整備され、気軽に楽しめます。堀中通路ー桝形ー虎口の構造も明瞭です。麓に動物園もあります。アクセス地図http://yahoo.jp/fP4g8l
観音橋にポイントしました。庭球場・動物園の市営駐車場から観音橋を目指すのがわかり易いと思います。
注:臥竜山頂が城跡ではありません。私は思いこみで臥竜山頂に到達し、悲しくなりました…。
さいごに大手筋、郭4
大手筋、岩屏風のような城門城壁まえから下方
郭4
宮坂本では「馬場跡か」としている。
北西端
川中島・旭山城・葛山城方向
信正はここから弘治元年(1555)の第二次川中島合戦、旭山城と葛山城で対峙する甲越双方の旗の動きを見ていたか。天文19年(1550)には信正は一時的に武田方の調略にのっている(柴辻 2013 ,p.28)。弘治3年(1557)第三次川中島合戦時には、信正は鮮明に武田に従っている。
足元
石動の館で触れた須田対馬は、須田信正の一族と考える。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏の地域支配』、岩田書院