月生城2 | えいきの修学旅行(令和編)

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       西から見た月生城主要部(須田氏居館跡設置説明板より引用・白・黄字加筆)
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  その2は主郭からスタートします。
 宮坂鳥瞰図からもわかるように、主郭(郭2・1)背後(南)の雨引城に至る南尾根は、大堀切キ・クの二重の遮断線を設け、さらに畝状空堀群を敷き回り込みを阻止している。
 主郭の構造も、雨引城・南尾根方向に向け高い。これは戦闘指揮者が在する郭の格や指揮系統を意味するだけではなく、雨引城方向から逆落としに迫る敵に備えた高さと考える。
  
 いきなりまとめます。
 武田支配下においては、南方・雨引城方向は味方後方であり、警戒する必要はない。反対に、上杉支配下においては敵方前方になる。
 畝状空堀は越後上杉の普請構造として特徴的である。謙信期は、永禄中盤以降、天正期に見られる。しかし、弘治3年の第三次川中島合戦以降、謙信存命中は、この地域は武田の支配下になり、越後上杉は普請できない。主郭周辺の畝状空堀群、ルート設定、南方・雨引城方面への大規模かつ新鋭の二重遮断防御ライン構築は、天正10年本能寺の変後、北信に進出した景勝期上杉による改修であろうと考える。
 
 鳥瞰図裏(東)側も畝状空堀群、さらに帯郭は南端に土塁を衝立て塞いでいる。
 
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南東隅から主郭(上図B地点から左斜め下に向かいみている)
宮坂図では、帯郭北東部からA地点に入る導線が描かれている。
しかし、私はここ、南東隅B地点に連絡する構想もあったのではないかと考えている。(後述)
 
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郭2は北に段差があり低部がある。さらに北端に低区画がある。
 
振り返っておきましょう。
 
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郭2から郭1
土塁下が雨引城からの南尾根を遮断する大堀切キ。後で詳しく。
 
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郭2北端低区画
宮坂先生はすり鉢状の曲輪としている。
天水溜であろうか。または北、西尾根を監視する区画であろうか。
 
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隅から北尾根(その1参照くだいさい)。
しっかり監視できる。
 
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西尾根(その1参照)
こちらもしっかり監視できている。
 
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主郭(郭2)西面下、西斜面には畝状空堀群オ
チラ見です。
 
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三連畝状空堀群オ
これは南尾根からの回り込みだけではなく、大手西尾根からの回り込みも阻止している。
 
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その先(南)10mほどおいて二連堀畝状空堀カが敷かれ、さらに竪堀に変化した大堀切キの畝に接している。
これも、チラ見です。
 
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二連畝状空堀カ
大堀切キの畝に接する。
 
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二連畝状空堀カが大堀切キに接するところ。
大堀切キは畝状竪堀に変化する。
 
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直上から
 
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直上は郭1 土塁が巡る
 
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大堀切キ越に南尾根・郭3 雨引城に至る方面
厳重遮断。
郭1土塁により、南尾根から郭1は完全に見通せない。
また郭1から郭3は監視可能。

 

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上写真の右側、大堀切キが竪堀に変化するところ
変化する線は段になっている。
 
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郭1南土塁上から大堀切キ底
 さきに見通し遮断について書いたが、郭3との接続は、この直下堀底を通り、畝が始まる段差線から南尾根に接続していたのではないだろうか。これはその3で。
 
 では大手・西尾根から主郭へ入るルートを考えます。
 

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 西尾根から帯郭に至ったルートは、右(西)への回り込みは阻止されており、北から東に郭2に頭上から監視されながら周ることになる。もちろん、頭上から攻撃にさらされながら通過しなければならない。
 
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宮坂図では、帯郭北東から斜めにA地点へ至る導線が描かれている。
 大手西尾根から帯郭に上がったルートは、主郭上から頭上監視を受けながら帯郭を周り、北東隅A地点へあがったのだろう。

 帯郭南端には、南尾根からのルートが入っていたと考える。

 帯郭南端からも郭上から頭上監視されながら帯郭を北東隅まで通し、郭上A地点へ上がったのだろう。

 

帯郭西は畝状空堀群で通行を出来ないように刻んでいるのに対し、東は南端土塁・堀切ケまで刻んでいない。尾根下方への迎撃郭というだけでなく、郭上から監視できる通路として利用されたと考える。
 土塁土橋とし郭1B地点へ連絡する箇所は、明確に痕跡があるわけではなく、私が見た感じとしての可能性です。
 
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西尾根大手ルートから主郭北西隅を見上げる
主郭下には帯郭が配されている。
 
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主郭北西下帯郭にあがったところ
主郭北西隅が狙っている。
上がって右の西斜面は、先ほどまでこってり紹介した畝状空堀群ゾーン。
 
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この先は畝状空堀群ゾーンで阻止されている。
              
帯郭の主郭北下を西から撮った写真がありません。
 
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主郭北下部帯郭 
注:東から
 
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主郭東下帯郭
宮坂図では写真右部を斜めに郭上A地点へ上がる。
写真奥・帯郭南端には、南尾根からのルートが入っていると考える。
帯郭南端からも郭上から頭上監視されながら帯郭をここまで通し、郭上A地点へ上がったのだろう。
 
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帯郭南端
土塁で塞いでいる。
土塁先は二重畝状空堀ケ(その1で触りました)
この構造、景勝期上杉の普請にみることができる。
 
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土塁で塞いで
といっても完全には塞いでいない。微妙に切れているのをチェックしておいてください。
南尾根から接続するルートが入っていたと考えます。
その3で。
 
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土塁土橋状城内側を伝い、郭1南土塁の北(右)、郭1南東隅B地点に連絡する可能性もあるのではないか。
 
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明瞭ではなく、また斜度もきついが、連絡通路に見えなくもない。
左(南)からくる敵には土塁で連絡通路を隠している。
緊急の出撃口か。
 
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郭1南土塁北・南東隅にあがり、冒頭のB地点
左には郭1南土塁
  帯郭を頭上監視しながら導線として周し、郭上にあげるプランは、景勝期上杉の普請と考えていいだろう。
ただしB地点への連絡導線は、景勝が警戒すべき南方雨引城方向に出入口が近くなるという弱点がある。南尾根からは郭1南土塁から帯郭南端土塁までを防御線とし、切口は関門で、関門入って帯郭を北東隅まで郭上から監視されながら通し、主郭上には宮坂先生のルートで郭2北東A地点に入ったと考える方が妥当だとは思う。
 B地点と帯郭南端とのルートは、帯郭を通ってA地点に向かった敵の背後に躍り出る緊急出撃口か。
 その3では、景勝期上杉が最も警戒し厳重に普請した南尾根・雨引城方面への備えを辿ります。