月生城1(長野県高山村大字高井水中) | えいきの修学旅行(令和編)

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 北麓から見る月生城
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 滝の入ー灰野峠と至る道が謙信道である。麓には上野。越軍が月生城山下に3000頭の軍馬を隠し、ここから川中島に出撃したと伝わる。
 大岩城は謙信道からやや離れる。
月生城は、まさに謙信道脇に伏せている虎のようである。月生城には武田家臣安間氏の伝承もある。月生城と大岩城との間の水沢原は「おやしき」の地名があり、甲州武士の居館が推定されている。
 伝承だが、甲越双方の軍が行き来し、戦国期支配者が、はじめは越後方大岩須田氏、弘治三年前後から甲斐武田の勢力下、天正6年6月以降は越後上杉景勝の勢力下へと移り変わったことを物語っている。
 
 月生城には史料はないが、黙し静かに歴史を湛える城跡から、えいきの愚考で読み解いていきたい。
 
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その1では、西の謙信道側、滝の入奥から東尾根伝いに山上を目指します。
このあたり、勝負田と云う。川中島合戦における甲越双方の武士による一騎打ちの伝承が伝わる。
 
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ここから柵をあけ入山しました。
 いちおう農道ですが、乗用車の進入は困難です。適地より徒歩をお勧めします。もう少し下方の出入口から入山でもよさそうです。(わたしはカンでここに至りましたので)
 
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出入口入って、右の尾根に取り付き登ります。
 
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この尾根が東尾根ビンゴで、写真中央に堀切コがあります。
(堀・郭名は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版に準拠、以下宮坂図)
東尾根(この尾根)と北尾根(右)の間に底部に水場有。
 
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東尾根と北尾根間の低部の水場(北尾根から探索中の写真)
 
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水場
 

 
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尾根普請は省略、写真で御連れします。
その1では、東尾根から山上主要部を目指し、主郭周囲下帯郭と西・北の尾根を辿ります
 東尾根は多数の段により厳重に普請されている。酒井健次は『探訪信州の古城ー城跡と古戦場を歩くー』のなかで、謙信道に接する月生城の東の防備は、特に厳重で、多数設けられた笹の葉のような形をした笹曲輪を武田氏の築城方法としている。
 以下、その2で。
 主郭の背後の西・南・東を大堀切・畝状空堀が守っている。雨引城に至る南尾根からの接続に備えたものと考える。
 畝状空堀は越後上杉の普請と考えるが、謙信期は、弘治三年の第三次川中島合戦以降、この地域を勢力下においていない。
 
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堀コ
 
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二十段程はあろうか、東尾根笹曲輪段。
 
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 直登でさえも厳しいが、さらに息も絶え絶えに段をえっちらおっちら上がる都度停止するであろうから、上からは狙いやすいであろう。
 
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下方を見る
 
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南東尾根との間の谷
 
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北東尾根側の谷
尾根伝いでなければ、取り付きは無理であろう。
 
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尾根伝いはこんな…
いかに謙信道側を意識しているか。
 
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に南東尾根が集まってくる
間には、山上主郭背後(南)の大堀切キが竪堀状に自然地形に一致し降り割っている。
 
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堀キ 山上方向
堀キには畝が設けられているのではないか。
 
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右に目を向けると北尾根と山上主要部を区切る堀イが見える。
あぁ、来てよかった。
 
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主郭下帯郭の一段下の段
ここで、尾根伝いに登り伝う寄せ敵を監視・迎撃できる。
 
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うりっ、主郭下帯郭へ
柵から16分。
 
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帯郭の南端(左)は土塁で塞き止めてあり、その先南尾根とは大堀切キ、二重畝状竪堀ケが設けられている。
雨引城方向・南尾根に備えている。
 
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帯郭南端、塞ぎ止めた土塁
雨引城方向・南尾根に備えている。
謙信後期から景勝期の天正期上杉にみることがある。
 
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土塁下に二重畝状竪堀ケ
テーマとしてはその2にしたいのですが、惹き込まれる…。
 
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二重畝状竪堀ケ
さらに大堀切キが饗宴している…。
信濃の多重堀とは異なる造作で、その2で扱います。
帯郭へ引き返します。

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主郭東下帯郭
ちょっと木が邪魔。
 
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ひゅー
この帯郭東部には、私に黙して訴える石がある。
 
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これ
ゆかりの侍の墓ではないか。
 
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如何に
 
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帯郭北等隅から北尾根(後ほど)
まず帯郭を北、西に巡ってきます。
 
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帯郭北部
 
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北西隅へ
西尾根も後ほど
 
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帯郭西部
この奥、畝状空堀群。
その2で。
では、戻りながら北西隅・西尾根、北東隅・北尾根を辿ります。
 

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帯郭北西隅から主郭
 
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帯郭北西隅から西尾根
 
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隅下に堀ウ
 
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西尾根は厳しくない
甲州武士の居館と推定される水澤原方向で、武田時代の大手、というか通用路か。
 
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その先20m程に二段ある。
東尾根の段ほどは、きつくなく、厳重ではない。
 
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堀切エがあるが、尾根は緩く水澤原方向へ降りる。
 
北尾根へ。

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北尾根
下方、謙信道に接する。
堀イの先に舌状の段(郭)
 
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舌状の郭
尾根伝いを迎撃する段か。
 
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東尾根同様、笹曲輪が多数段を成し、攻め登り伝うには厳しいだろう。
 
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うっ、
 
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ここが堀切ア
 
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その先、宮坂本では尾根右(東)に竪堀2本描かれているが、よくわからなかった。
 
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堀ア付近から北尾根上方
尾根自体厳しいが、さらに多数の段を重ね、厳重に登坂を阻止している。
 
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北尾根東斜面
 
その1はここまで。
 
 その1をまとめます。
 
 1で見てきたように、謙信道に接する東尾根・北尾根は笹曲輪で多数段を成し、厳重に登坂を困難にしている。笹曲輪は甲斐武田の築城法という。未踏ではあるが、同じく謙信道に接する南東尾根も多数段による造作が成されている。しかし、武田武士の居館を推定する水澤原方向の西尾根の普請は、東・西尾根に比し、緩い。
 
 これは、武田勢力下において、謙信道に備え普請もしくは強化されたことを物語っている。
 
 それは、いつか。
 
 武田がこの地域を支配下においたのは、弘治3年(1557)の第三次川中島合戦後、越軍が越後に退いて後である。永禄4年(1561)第四次川中島合戦以降、越軍の信濃進軍は飯山までで、善光寺平には来襲していない。武田の前線は、この地域よりも北東の飯山城に向かい、若宮城ー髻山城ー替差城―壁田城ー計見城が強化されている。武田にとって月生城・大岩城付近を警戒強化する必要があったのは、長くても第三次川中島合戦以降、第四次川中島合戦までの4年間であろう。
 
 第三次川中島合戦において、景虎率いる越軍が、いわゆる謙信道とされる飯山ー中野―真山ー灰野峠を越え、川中島・善光寺・尼飾城・坂城に進撃、山田城・福島城を落し猛威を振るった。景虎率いる越軍が、軍勢の動きを隠し山間の峠を乗り越して突如善光寺平に現れる謙信道は、武田にとって極めて脅威を感じるルートであったことであろう。
 そのへんの甲越双方の動きは第三次川中島合戦で改めて書こうと思っています。
 
 私は、謙信道に接する月生城の東・北・南東尾根の普請は、第三次川中島合戦において謙信道を脅威と感じた武田方により、北から迫る越後勢に備え、謙信道の封鎖を目的としてなされたものと考えます。
                        もういちどトップの写真
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 第四次川中島合戦では、月生城による謙信道封鎖が機能し、政虎率いる越軍は謙信道による進軍はせず千曲川の東岸を押し進んだのではないだろうか。
 対岸、赤沼嶋津氏の館が越軍の焼討ちにあっている。
 
 月生城は武田による領域支配の拠点城郭ではなく、謙信道封鎖を目的とした軍事施設のため、また必要とされた期間も4年間(大岩須田氏の越後落去が永禄2年だと2年間)であったため、史料に登場しないのではないだろうか。
 
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その2では、主郭と、雨引城に至る南尾根への備えをテーマにまとめます。
こちらはまた時代も普請者も異なる様相です。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
              湯本軍一監修(2007)『探訪信州の古城ー城跡と古戦場を歩くー』、株式会社郷土出版社