大岩須田氏関連訂正しました | えいきの修学旅行(令和編)

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ご近所の研究者に質問させていただき下線事項を御教示いただきました。
 
越中前線において景勝政権中枢を担う重い立場にもあった須田満親は、天正13年6月には従来の郡司権限を超える景勝の権限の大幅な委譲を受けて海津城主となりますが、大岩須田氏が、旧領大岩に復帰したのかどうかは確認がとれませんでした。
 
 しかし、後の定納員数目録では須田満親は12086石の大身で、天正10年6月から13年6月までの間に信濃で所領を得ているはずです。
満親の後継右衛門太夫は天正14年軍役帳では1902石・140人の軍役を担っています。
 
 海津城は千曲川の河南に在り、大岩郷も河南で、満親の所領に旧領大岩が含まれていたと想定することは不自然ではないと考えます。
 
 上記に沿って、大岩城3の一部を書き直しました。