竹の城
龍の頭のよう
北西からが大手のようで、堀イの前で岩を縫い折れ曲がる。
また南は搦手とし、ク・キ・カ三重の堀切は井上城に比し鋭く、竪堀状に降り下る。また道は三重堀を食い違いながら通過する。カの城内側は石塁で強固に固められた防御線となり、郭5が関門として守る。さらに配される堀切オも第二防御線として機能する構造を持つ。郭3、郭2、主郭へのルートも上の郭から厳しく監視されながら険しく設けられている。
宮坂本では、「戦国末期に北山麓に居館を構えた仁礼出身の大峡氏が修築を加えて今日のような姿になったと考えられている」(宮坂 2014,p.278-9)としている。
そのへんの事情に関しては、池上裕子(2012)『日本中近世移行論』を参考に後述したい。
アクセスも後回しにします。写真をいきましょう。左図右下・乗越峠から、搦手に入ります。
搦手三重堀切ク・キカの手前です。
堀前には土塁が設けられている。
三重堀切最南堀ク前面土塁前から三重堀切
前面には土塁、後方は食い違いながらくねくね越える。写真中央右は堡塁か。
堀ク
堀キ
食い違いながら乗り越えていく。キ城内側(カ前面)土塁は盛り高く、見通しにくい。
宮坂は堀キを武者隠しの役をしているとしている。
堀キ城内側(カ前面)土塁を乗り越え
堀カ底を土橋状に渡り、郭5虎口に入る。虎口は枡形様。
この堀カは強化な防御線を構成している。
土橋右(東)、竪堀状に降る
土橋左(西)
この堀カ城内側壁面は石塁で強固に補強されている。
壁面上は郭5.
石塁
西から
北信在地領主の石積とは趣が異なる。
郭5から石塁と堀カ底
郭5内から、虎口、三重堀切を食い違いながら通る搦手をみる。
井上城とは明らかに時代差があり普請レベルも異なる。
数段経ながら進む。
郭4
傾斜が厳しくなる手前に堀切オ
堀切オ
ここもなかなか厳しい防御線を構成している。
オ底
土橋状
土橋左
端は竪堀となり降る。
土橋右
井上城よりも鋭い。
土橋直上は堡塁が待ち構えている。
直下、晒されながら左に周り登る。
堡塁から土橋を監視
1mほど引いて見る。
右回りに入ってくる。
堀切るだけでなく、防御線として機能している。
城内側、さらに堡塁が狙っている。
いよいよ主要部に近づく。
まるで石垣ルートのよう。
見える(待ち構える)高地は山上主郭ではなく、郭3。
郭3線
枡形様にも見え、虎口にも思えるが、石でも転がしやっつける口にも見える。
奥の高地は郭2
石塁補強の枡形虎口にみえる。
私はあまりの感動に雄叫びをあげてしまった。
郭3はいったところ。
虎口も郭内も、城内側岩壁高地うえ郭2によりしっかり監視されている。
郭3は郭2へは左右(西東)から回り込み至るルートがある。
右回り(東)ルート
崖端を岩を活用した巧み設置。
左上郭2から監視されながら進む。
無理だろう。
左に折れ上がる。
上には虎口
郭2東虎口
こんな凄い城がこんなところにあるなんて…。
(景勝は森退去後は即座に海津城まで接収進駐しているので前線ではない)
大笹街道に備えたのであろうか。
郭2へ入ると、ここも主郭がしっかり狙っている。景勝期上杉の近代的普請で間違いないだろう。
主郭のこちら(郭2)側は土塁が設けられているので、道状は道ではないであろう。
ルートは左(西)回りで設けられている。右(東)は物見岩
東回り、物見岩ルート
物見岩
危険
郭2から郭3虎口を見る
この監視、越中で佐々と攻防を繰り返した景勝期上杉の普請で間違いない。
搦手途中ですが、1はここまでにします。2へ続きます。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
池上裕子(2012)『日本中近世移行論』、校倉書房
矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編(2005)『上杉分限帳-越後・会津・米沢ー』、新潟大学「大域的文化システムの再構築に関する資料学的研究」