竹の城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

  搦手から主郭へ至る途中ですが、1をご覧いただければ既に井上城との時代差と普請レベルの差は歴然のことと思います。
 宮坂本では、「戦国末期に北山麓に居館を構えた仁礼出身の大峡氏が修築を加えて今日のような姿になったと考えられている」(宮坂 2014,p.278-9)としています。
 私も天正期上杉(景勝)による近代的普請と観ました。
 
 記事最後になるとエネルギーが減るので、ここでその辺の事情を池上裕子(2012)『日本中近世移行論』を参考にまとめてみます。
 
 天正10年6月、本能寺で織田信長が倒れると、川中島に進駐していた森可成は上方へ撤退する。
かわって同年3月武田滅亡直前から北信を伺っていた上杉が越後から南下、川中島を勢力下におさめる。
そして謙信時代に武田に追われ越後に逃れていた旧信濃の国人領主達が信濃に復帰する。
 しかし、みなが本領安堵、もしくは新知宛行され復帰したわけではない。武田時代、越後に逃れなかった同族が武田氏に宛がわれていた本領を安堵されたり、さらに戦功や忠節により加恩されたりしている。嶋津、須田は新恩として井上領から加恩として宛がわれている。
 井上氏は、信濃復帰に際し、旧領よりもかなり領地を減らされ力を落とした状態で復帰したことになる。
 力を落とした井上氏は、軍勢を要する能力も高くは保てなかったのではないだろうか。井上五十人衆 と称される井上旧臣や旧領の出身者と思われる集団は、天正11年2月28日、井上氏ではなく、大峡織部佐の下知を受けることになる。 大峡織部佐は「定納員数目録」では越後侍中にあり、謙信馬廻りを経て御手明弓衆の大峡織部佐組の部隊長となる。大峡氏は竹の城から南東約4kmの仁礼出身とされ、忠節の実績があり、かつ有用度・信用度のある侍であったのであろう。そういったところに、井上城の旧態然の様子と、竹の城の近代的な鋭い普請の様子が顕れているのではないだろうか。
 天正12年3月以降、井上衆は海津城と井上城の守備を井上左衛門太夫に同心としてつけられ務めた。同心とは井上氏との主従関係はなく、井上旧臣が上杉直臣に改められ、同心として井上左衛門太夫に付属させられたものである。
 
 井上城・竹の城を歩くことにより、上杉が北信に進駐、領国化していくにあたっての統治機構の整備、ならびに軍編成・家中秩序の再編の過程をフィールドから味わうことができると思います。修学中の鉢形領と重なるところもあり、なかなかゴージャスな修学となりました。
 
 私の年末のテーマとしたい第三次川中島合戦への繋がりは後述します。
 
では、遺構の続きをいきましょう。
イメージ 1
郭3から左(西)回りルートで主郭へ入り、大手とされる北西尾根を辿ります。
堀イの前は、岩を縫い折れ曲がる構造がみられます。
  
イメージ 2
郭3を東から。
岩壁上郭2に監視され、西コーナーから郭2へ回り上がる。
  
イメージ 31
井戸か天水溜であろうか。
 
イメージ 3
西コーナーから岩を絶妙に利用した屈曲登路で郭2へ上がる。
  
イメージ 32
岩で折れる付近から、井上城、葛山城方向が見える。
 
イメージ 4
岩で右に折れ屈曲登路
  
イメージ 5
郭2西出入口
石が城戸構造を思わせる。 
 
イメージ 6
郭2
岩壁上は主郭 
ここも郭も虎口も、しっかり上の郭(主郭)に監視されている。
 
イメージ 7
西コーナー、城戸を経て、さらに主郭へのルート。 
 

イメージ 8

これ、石で階段というか段差を設けてある…。 
 
イメージ 9
カーブうえは枡形の虎口 
これって…
溜息がでるよ。 
 
イメージ 10
下を見る 
郭2西の出入口・城戸が監視掌握されている。
階層的に虎口を重ね、  

イメージ 11

枡形に入る。
景勝期上杉の普請。 
 
イメージ 12
竹の城主郭 
 
イメージ 13
東にでる物見岩
  
イメージ 14
物見岩から明覚山・謙信道方向(中央左) 
山向う月生城麓に謙信が軍馬3千頭を隠し川中島に進撃したという伝承がある。
 ヤフー地図ご覧くださいhttp://yahoo.jp/RaJJxZ
マークが竹の城の位置です。
  
 ここで弘治三年(1557)第三次とされる川中島合戦の概要をかんたんにまとめます。
 
 2月、落合氏が守る葛山城が武田に攻め落とされます。越後長尾景虎は越後諸将に参陣を依頼しつつ後詰を試みますが雪もあり、間に合わず。
 長沼城の嶋津氏は大蔵城に、中野小館・割ヶ岳城の高梨氏は飯山城に退き、景虎の救援を待ちます。井上氏は越後に逃れたようです。景虎は信濃に出陣、ここから見える謙信道沿いにある山田城、竹の城北西約2.5kmの福島城を攻め落とします。善光寺から村上氏旧本拠坂城まで攻めこみます。そして8月、上野原で合戦に及びます。(矢田 2005,p.173)
 
 景虎はこの年、信濃更科八幡宮、小菅神社へ、信濃諸氏の依頼による信濃救援の出陣を宣誓し、晴信打倒を願う(誓う)願文を奉じている。
 
 この竹の城・井上城周辺が弘治三年第三次川中島合戦の重要な要素であることがおわかりいただけると思います。
 
 謙信道・月生城・第三次川中島合戦に関しては別稿にて修学したいと思っています。
 
 もういちど上の写真にもどります。
 
 右方向に進むと大笹街道が大峡氏の本拠仁礼、菅平を経て真田に、また途中鳥居峠を経て吾妻に至るります。地図、拡大してご覧ください。
 1で、この竹の城は海津城よりも越後寄りで後方と書きましたが、景勝が大笹街道で繋がる真田に備えた要害とすると後方ではなくなります。
 
  天正10年7月26日、真田重臣矢沢頼綱は、北条氏照から「ー信州奥郡川東(千曲川)於井上之内、千貫文遣之候、-」(矢沢家文書)と井上を所領として遣わすと書状を受け取っています。北条と北条を背景とした真田は、景勝制圧下の井上を狙っていたのです。
 
 私は竹の城は、天正10年6月の本能寺の変以降北信に進出した景勝が大笹街道を経て繋がる真田に備えて改修強化した城と考えます。天正13年7月に真田が上杉に帰属するまで、その押さえとして機能したのでしょう。
 
 景虎の第三次川中島合戦の弘治三年と、景勝の北信進出天正10年では25年の差があります。
 
 井上城・竹の城は、井上、長尾、武田、その武門の変転・運命を味わえると思いませんか。
 
 遺構写真にもどります。北西尾根大手を下ります。

イメージ 15
主郭北隅に大手とされる北西尾根へ降る虎口がある。
降りると堀エ。 
 
イメージ 16
土橋で渡る 
渡った先は岩で塁となっている。
 
イメージ 17
堀エ
 
イメージ 18
塁の先、小郭
小郭両端は堀ウ
小郭先は岩累々の坂道で、登る敵に頭上から攻撃を浴びせることができる。
 
振り返る。
イメージ 19
塁、堀エ越しに主郭
 
イメージ 20
小郭先は岩累々の坂道
 
イメージ 21
その先、堀イで断ち切られ、岩塁を縫い折れ曲がるなかなかエグい構造。
 
イメージ 22
堀イ
 
イメージ 23
降り
 
イメージ 25
縫い折れ曲がる
 
イメージ 26
曲がった先、下り、鞍部手前に堀アがある。
   
 振り返る。
イメージ 24
おぅ
 
イメージ 27
鞍部手前、堀切ア
 

 
 いかがでした、竹の城。
 興奮気味に書き進めましたので、ブログくどかったかもしれませんが、遺構も歴史背景も楽しめる素晴らしいお城です。ぜひ、訪れてみてください。
 同様の背景として鞍骨城もお勧めですが、鞍骨は山中深いです。竹の城は薬師庵から22分で、草と蜘蛛にやや難渋しますが、さほど困難なく到達できます。
 
ではアクセス。
イメージ 28
薬師庵
写真右、本堂と庫裡の接続部を横切り抜けると登城路入口があります。
お声掛けのうえ、通らせていただきましょう。
 
イメージ 33
登城路入口
 
イメージ 29
乗越峠
薬師庵から13分。
 
イメージ 30
縁結地蔵が座すところが郭10
くだり、鉄塔を経て搦手三重堀切に至ります。
乗越峠から三重堀切ク手前まで9分です。
 
参考文献  宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
        池上裕子(2012)『日本中近世移行論』、校倉書房
        矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編(2005)『上杉分限帳-越後・会津・米沢ー』、新潟大学「大域的文化システムの再構築に関する資料学的研究」
         矢田俊文(2005)『上杉謙信』、ミネルヴァ書房