三日市場城(長野県白馬村神城三日市場) | えいきの修学旅行(令和編)

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三日市場城遠景
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 西麓を千国街道が越後糸魚川へ至り、北麓を千見城を経て善光寺平へ至る街道が通る要衝に築かれている。史料はないが、戦国末期の大勢力によると思われる普請が明瞭に残る。 
 しかし、惜しくも一部が破壊されてしまった…。しかしその破壊は、悪意によるものではなく、無知によるものであり、三日市場城はその破壊をもって、人類の財産である文化財・史跡を後世に伝えるには、啓蒙と教育が重要であることを知らしめることになった。
  
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 で、この白馬村にある三日市場城がどういう城であるのか、どんない素晴らしい史跡であるのかという教育と、このように素晴らしい文化財を後世に大切に伝えていきましょうという啓蒙のため、信州大学の笹本先生による現地説明会が催されることになった。
私は笹本先生の著書や講演記録を愛読しているので、中学生時代の松山千春コンサートに勝る感動でした。
  
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白馬村長。 
あいさつだけかと思いきや、最後まで同行、笹本先生の説明を真摯に聴いておられました。
その姿勢は、尊敬に値します。
この村長なら、白馬村の史跡を大切にしてくれるでしょう。
  神明社参道前http://yahoo.jp/MaIeCn
   
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登り口に神明社
 この拝殿、天正16年創建で、笹本先生はその創建年代が三日市場城築城者を解くカギとおっしゃっていた。天正10年武田家が滅亡、その後このあたりは上杉、小笠原、真田、木曽による騒乱(天正壬午の乱)の舞台となります。騒乱は天正18年小田原北条氏の滅亡によって収束。
 小笠原の築城説を言外に唱えていたようだ。
  
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立ち止まり説明する笹本先生 
背後の尾根伝いに三日市場城を目指します。 
 
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登り開始
今日は独行ではなく、淋しくない。 
 
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宮坂武男作図:三日市場城縄張図(現地配布資料より )茶字ブログ説明用に加筆。
 (記事末に記入なし原図掲載)
簡単に、
横堀と放射状竪堀が武田の普請を思わせます。
    
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上図右下方より侵入 
郭4虎口
突入した兵を寄ってたかって刺し殺す。
人々が屯集しているのが郭4。 
 
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郭4
上に堀状に見えるのが郭3出入口
 郭4は両端を竪堀ア、イで遮断し、横への移動を制限している。
  
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郭4西端 竪堀の向うに竪堀ア
  
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竪堀ア(上に位置する郭3よりみる) 
 横移動を阻止
  
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郭4東端は竪堀イで横移動を阻止 
つまり大手の入り口である郭4は、横には行動できず、入ったら行動は限定される。
戻る(逆落としに背から追撃される)か、上の郭3出入口に頭上迎撃を受けながら向かうことになる。
  
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郭3出入口に集まるように向かう。
 傾斜で速度を落とされ進む寄せ手を、土塁で守られた郭3と、右上小高い郭6から挟み包むように迎撃。
 三日市場城は大手を虎口を持つ郭4・郭3を二つ重ね、厳しく迎撃するプランをもって普請されている。
  
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郭3
写真奥が西端 
郭5(右上)から竪土塁状に土塁がある。
その下に竪堀ウ。竪堀ウは横堀エが接続し,放射状竪堀を放つ横堀線の起点となる。
なおその横堀線は竪堀ウ接続部から約25m二重である。
  
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竪堀ウと二重横堀の接続 
 
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そして二重の北端(上の写真の右端)は三連放射竪堀!
                                       
郭3から郭6を経て郭1へ向かいます。
 
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郭1西下小郭は宮坂本では馬出様とされている。 
 
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郭6 
郭6から奥の郭2へは、土塁と大堀切で阻まれ接続していない。
  
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南隅から郭1へ
  
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郭1
祠があり、西面に低いが土塁線が残る。
その土塁線下に郭5、その下に先ほどの横堀エ線が巡り、三連に比しやや間隔が広い二連竪堀が放たれている。 写真奥は大堀切を隔てて郭2。
  
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土塁線した郭5
郭5西下には横堀エ線が巡る。
  
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横堀線と二連竪堀の一本 
 
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もう一本 
 
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郭1北東端 大堀切こしに郭2
 郭2の郭1側には大土塁(櫓台他土塁以外の運用も可能な幅)があり、郭1から郭2は見通せない。
また郭2は大手に対し郭1よりも奥にある。よって主郭は郭1ではなく、郭2である可能性もある。
  
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大堀切
 郭2西も横堀として巡り、横堀エと二重に守っている。が、これが重機が通り破壊されている…。
  
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東端も竪堀となる上端付近が重機で押しやられた木や土で埋められている。
  
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郭2
 
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郭2の郭1側には幅広の土塁
  
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郭2土塁上からは郭1を見渡すことができる。
(郭1からは反対に土塁で遮蔽され、郭2内を見通すことはできない)
郭2は郭1を警戒し、監視できるということか。
  
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郭2土塁を少し引いてみる。 
 
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郭2北の尾根続きは二重堀切で厳重警戒
 
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すこし角度を変えて見ると三日月っぽい。
長々と書いてしまいましたので、最後に書いた内容をまとめてみます。
 
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 尾根続きである南北は、北は二重堀切、南の大手は虎口を設けた郭3・郭4を重ねて配し、迎撃構想をもって寄せ手を迎える。
 西は、二重の横堀を巡らせさらに放射状の竪堀を放ち最高度の警戒をしている。
 東は傾斜が急なこともありさほど警戒していない。といっても竪堀の痕跡があり、念をいれていたようだ。東は味方ってことか。
 やはり千国街道の先(北)、越後からの軍勢に備えている構造に思える。
  越後から南下、根知口から信濃に侵入した私は、ここで小県から進軍したらんまるさんと安曇野から北上したていびす連合軍に迎え撃たれた。
 
 これが三日市場城の用途であろう。
 
 平和な現代では、越後・小県・安曇野の平和同盟が結ばれることに成ったが。
 
 笹本先生の話、終始、破壊してしまった方への気遣いを忘れず、またおべっかというか表裏のリップサービスを用いず、誠実に史跡の素晴らしさ・大切さ・白馬の素の美しさを訴える内容でたいへん感銘をうけました。 
 
  参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館7』、戎光祥出版 
                白馬村公民館講座「戦国の山城」を訪ねて」(講師 笹本正治)配布資料