葛尾城(長野県坂城町坂城) | えいきの修学旅行(令和編)

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南西よりみる村上義清の主城、葛尾城
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館は尾根の向う側、坂城にあり、満泉寺がそれとされる。
千曲川に臨む南尾根には姫城、西の尾根には岩崎城が構えられ守りを固めている。天文22年(1553)4月9日、武田の攻勢により自落した際、また、すぐに越後勢により奪還された際には、写真で見える岩崎城の北(写真左)の沢から搦手に攻め上げ、落城に至った。岩崎城は武田により強化された支城のようである。
 
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村上氏の居館跡とされる、満泉寺。
 
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満泉寺から葛尾城を見上げる。
比高390mに及ぶ。
 
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南東よりみる。
居館のある坂城側から攻め登るのは困難であろう。
 
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情勢を地図で
 村上義清は、天文17年、19年と二度にわたり、坂城を出で上田で武田勢を打ち破ったが、天文20年には真田幸隆に戸石城を落とされ、坂城に封じ込まれる。
 天文21年に、大日方氏は武田に従属。武田は、安曇野から戸隠、川中島へ進出できるようになる。葛尾城が如何に堅固であっても、村上氏領は武田に包囲されることになり、自落、越後への落去はいたしかたない情勢であった。
 天文22年8月には武田の意を受けた真田幸隆が尼厳城を落とし、地蔵峠を越え川中島へと進出できるようになる。川中島以北で甲越が衝突することになり、村上義清の本領復帰は叶わなくなった。
 
上信越道や18号から幾度も葛尾城を観る都度、おぅーと畏怖し、畏敬していました。
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その山容に、これは登ることはないなぁ、と敬遠していました。
 ですが、『信濃の山城ベスト50を歩く』に、背後から林道が通っていて徒歩15分で主郭に到達できると書いてあるではありませんか!
で、雪降る直前、11月に行っちゃいました。
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坂城I・C、満泉寺、市街地から、林道への誘導はありません。
ここhttp://yahoo.jp/1Hukxrが林道入り口で、左ななめに行く案内がでています。
この地点から案内に沿って葛尾城背後に行くことができます。
 
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次に、ここを左
 
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ここを左
未舗装林道になります。
 
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大型車は避けた方がいいでしょうが、小型車なら気を付けて運転すれば大丈夫でしょう。
 

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なんと、駐車場があり、説明板があります。
ここから主郭まで徒歩15分。
 
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いざ、葛尾城へ!
勇んで進むと、左手に電話ボックス
 
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え?、と驚きましたが、中には坂城町教育委員会発行の葛尾城跡の説明資料が入っています。
案内図は、福原さんの作図!(その2で)
 
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尾根を進むと搦手
 
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搦手
堀で尾根を狭め、土橋としています。
その先、運用意図はわかりませんが、石塁が残ります。
 
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うぉっと、見事な堀
が、葛尾城の堀切は、こんなんで驚いていけません。
 
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土橋先、石塁は石橋?でしょうか。
 
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石塁右(北西)
 
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左(南東)
 
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石塁北西端(城側)
 
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降りて振り返る
 
尾根を進みます。
 
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高地手前
右に二条。左に一条の竪堀の痕跡
 
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高地から降って行くとぉ
 
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最低鞍部を断ち切り遮断する堀切ウ
最低鞍部、堀切ウに、岩崎城北の沢伝いにあがる道が入っていた。
 
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ウッ
 
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ウっ
 
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ウ!
 
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参考文献 
 
現地設置「葛尾城跡案内図」
『長野の山城ベスト50を歩く』 
宮坂武男『信濃の山城と館2