鳴海忠夫氏さん作図赤坂城縄張図主郭周辺
主郭東面は崖に接している。
主郭南西は沢の崖までの平地に外郭を設けている。
主郭正面虎口前土橋の南西の堀は、屈曲し、直角に折れ、③外郭と区画し、主郭南西面から主郭背面に折れ巡る。堀底に段差を設け計画された防御通路のようである。
堀の主郭北西隅に折れる部分は普請中途ではなく、虎口のようである。(遠藤公洋H16「戦国期越後上杉氏の城館と権力」)
構図的には寺院に見えなくもない。景勝が森勢の侵攻に備え本誓寺の超賢に守らせたとされる田切城や、謙信が武田の侵攻に対して備えた関山新地がここか?とも思ったが、地名的にはやや離れている。
主郭北西部分
段きりの中を山道が抜けていく。
区画は意図されてたようであるが、防御普請は見られない。未完を示しているのだろうか。
段きり区画でた先、左に土塁があり、土塁に沿って正面土橋南西の堀底通路が入る虎口がある。
堀に沿って巡ってきた土塁
堀底通路虎口 この画像、A画像とします。
堀が未完で普請途中、という解釈ではなく、私も遠藤が唱えるように虎口とみる。
天正以降の普請を思わせる構造で、雷城、鳥坂城に類似する遺構がある。
では主郭正面虎口にから、この堀底通路を辿ってきましょう。 この画像の虎口に戻ってきます。
正面虎口 土橋左
屈曲し、私を誘う。
いざ!
屈曲抜ける部分
堀右は主郭南面
主郭には土塁が設けられ、よじ登れない切岸となっている。
堀底を進むしかない。
屈曲の先、南西隅
竪堀が南に降り下りる
これは通路ではないであろう。
直角に右(北西)に折れ、主郭南西を外郭と隔てる。
折れた先、左③外郭と右主郭の間を抜けていく。
抜けていくとは書いたが、外郭(左)・主郭(右)から頭上挟撃を受けながら抜けていくことになる。
先に段差が設けられている。
段差
城戸で塞いでいたのであろうか。
この段差ライン、右の主郭側に切口がある。
段差と切口はセットである。
主郭切口
切口から段差ライン堀底を見る
城戸の上に橋を架け、対岸の外郭に接続する地点であろうか。高低差があるが。
主郭から掘底への出撃・退口か
堀底段差の先
25mほどで次の段差がある
この段差は高い。
段差が障壁となり、塞がれている。
堀底で立往生したところ、両郭から刺され、かつ切口から出撃した城兵に背後からも襲撃される。
外郭と主郭を連絡する地点でもあろうか。
段差上
堀幅が広くなる。
北東に直角に折れる地点にも段差が設けられている。
段差から堀を振り返る
左が主郭、右が外郭
通路と見ていいであろう。
主郭には土塁が設けらられており、外郭とは高低差がある。外郭からは主郭は見通せない。
北東に直角に折れる地点の段差
さきの高い段差と、この段差、折れにより、堀底通路侵入者には、折れ続いていることがわからないかもしれない。
折れた先は虎口
堀底虎口 最初のA画像の堀底虎口
このように頚城郡内茶臼山城、鳥坂城、赤坂城の堀底には、意図をもって計画的に設けられた段差施設があり、この時期(天正10年頃)の越後上杉は堀底通路防御構想を持っていた。 赤坂城、本能寺の変直前の危機迫る越後上杉の吐息が漂い、またその時期の越後上杉の普請技術を考察できる見応えのあるお城です。未完なところが情勢を著わしているようで、なお貴重なのではないでしょうか。寺尾薬師下から山道を登れば困難なくく到達できます。 アクセスと、私が彷徨い踏み込んだ城域より下方舌崖端付近の人為的削平地・石積遺構をおまけにつけます。