茶臼山城3 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

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 2016.10.3に一部画像を入れ替え、内容を修正しました
 
その3では、堀ウより西(左)の西郭群とルート2、主要登城路と合流し、馬出状の郭2(上杉の戸張か)から城門1上架橋部を主郭へと辿ります。
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 西郭群は、人為的な削平地ではあるが、要害的普請は見受けられない。城下集落あるいは家臣団居住地と考えたいが、明蓮寺が所蔵する明治村時代の調査絵図(後掲)では、在城当時ノ家中屋敷は城の東に、民家屋敷は現矢住集落に描かれている。
  
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ルート2は、堀ウ南部から郭四-三を経て、その2で辿った主要登城路と合流、土橋伝いに二郭へあがり、城門1上架橋で主郭南西端土塁欠部へ堀イを渡り、主郭へ至ったと考える。
 
城内側三郭から西郭群へ向かいます。
  
その2と一部重複します
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城門1から三郭横堀状区画にはいったところ.。 
ルート2が入る虎口も三郭へ食い違うように入っている。 
 
横堀状区画を右(上図では左)へ 
 
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土橋が二郭へあがる。
三郭南西隅下には、遊歩道破壊口があり、そこを補強するように三郭南西隅にはL型土塁が構えられているる。 
 
では2枚上写真の虎口から出ます。
 
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ルート2が入る虎口
直方体(やや短め)の内枡形に掘られている感じがする。
出ると遊歩道が横に走っている。
遊歩道の下方に井戸跡がある。
 
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遊歩道下方、井戸跡
 
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遊歩道を右(西)へ
 四郭土塁の前面に堀ウが走り、三郭南西隅L型土塁との間を遊歩道が貫通する。城門様だが、遊歩道による破壊口で、四郭土塁手前、左に開口する箇所がルート2出入り口であろう。
 
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ルート2出入口先堀ウ南を南西方向面・西郭群と連絡したと考える。
 
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遊歩道破壊悔口を西に出ます。
楯のようなのは、堀切ウの粋な説明版。
 
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破壊口前は堀ウ  
凄い。
この堀切が主要部城域西端で、ここが防衛最前線だろう。
 
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鋭い
 しかし、堀幅はそれほど広くはなく、堀際銃撃戦を行う普請の堀ではないようである。
 
 
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破壊口出て左(南)
こちらは厳しくない。ルート2が連絡したと考える。
 
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破壊口を西から
城門様で雰囲気は壊していない。粋な遊歩道造成である。
 
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堀ウ西、西郭群
要害的普請ではなく、家臣団居住区や城下的区域だったであろうか。
 
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六郭への上がり口と思われる段

 
 

では、主要登城路とルート2が合流する三郭にもどり、二郭へ向かいます。


 
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ルート2が三郭へ入る虎口
 
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三郭で、城門1からの主要登城路とルート2が合流し、土橋で二郭へあがる。
 二郭で直角に東に折れ、城門1上架橋で堀イを渡り、主郭へと至る。
 
つまり、 二郭は、主郭出入口前に配された馬出施設で、南から入り、二郭で直角に折れるという先進的な構造をもつ。上杉の戸張の可能性もある。 
 
堀ウ側には主郭土塁よりも高く幅広の土塁を備える。
 
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土橋伝いに二郭へ
 
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二郭
藪。
 
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堀ウ側には主郭の土塁よりも高く幅広の土塁が設けられている 
二郭は、西郭群、六郭とは高低差があまりなく、遠藤は見通されないよう遮蔽を意図した構造と指摘している(遠藤 2004 ,p.69)。
 
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いちおうクライマックスなのですが、写真、藪でよくわかりません。
二郭から主郭へ、木橋が架かっていたのでは、と推定地点。
二郭南東隅から主郭南西隅土塁欠部を見る。イメージ 17
大きく
 

 
 茶臼山城は、私が日常仕事をしている土地のため、こってり紹介してしまいましたが、一時間かからずに見ることができるスケールです。遊歩道も整備され、歩きやすく、小(こ)いいお城です。ぜひ訪れてみてください。
       慶長2年越後国頸城郡絵図の茶臼山城周辺
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茶臼山城の地籍は矢住。
茶臼山城は描かれていない。やすミ村周囲の山のいずれかであろうか。
町田城居館が茶臼山城ではないか、とする推論もある(佐藤春雄)。
 
○やすミ村は、片切分 黒金分 御料所
 本納46石6斗 縄ノ高111石4斗三升1合 10間 37人
 
○町田村は、上 御料所 此外拾壱方分 本納179665合 縄ノ高3138升 38間 96
○手嶋村は、上 宮嶋与八郎分 柿崎分 御料所 本納347石1斗8升  縄ノ高334石7斗 25間 65人
○畠崎村は 下 宮嶋分 柿崎分 御料所
 手嶋分 本納203石8斗6升 縄ノ高222石7斗2升1合 12間 54人
となっている。
 
 やすミ村と町田村は、周辺他村と比べ、本納よりも縄ノ高が多い。特にやすミ村は多い。
     
       表に簡略化します。
 
本納
(石未満切捨)
縄ノ高
(同左)
縄ノ高本納 (給付徴収) 
(小数点二桁以下切捨)
やすミ村
46
111
65
1.7/
町田村
179
313
134
1.3/
手嶋村
347
334
13
0.2/
畠崎村
203
222
19
0.3/
花ヶ崎町
185
183
2
±0
 
 伊藤正義(2014)「越後国頸城郡絵図に観る上杉権力と在地世界-村町の軍役と諸役の負担体系-」では、本納を領主への納入分、縄ノ高を在村の地侍の軍役負担に対する給付分とする新説を提示している(1)。
 とすると、茶臼山城近接するやすミ村・町田城に近接する町田村は、周辺他村よりも本納に対し縄ノ高が倍近く多く、徴収された高よりも給付された高のほうが明確に多い。その差異は、やすミ村が茶臼山城を、町田村が町田城の維持を担ったことに対する村への給付、と考えることはできないだろうか。
 
 御館の乱で景虎方であった顕法寺、町田、茶臼山城付近は、勝った景勝の料所として、あるいは景勝方として戦功のあった者の知行として分配された。
 黒金は、城主伝承の黒金摂津守で、景勝側近として政権の中枢に参画した侍である。
 茶臼山城にみる先進的な城郭構造は、御館の乱落城時の姿ではなく、乱後、景勝政権によって領域支配のセンター機能を持つ城館として、改修された姿であろうと考える。
 黒金が城主であったという伝承は、そのことを物語っているのではないか。
 しかし、やすミ村の領主側への本納高は、片切分 黒金分 御料所合わせて46石6斗でしかない。やすミ村からの黒金の取り分などは僅かで、黒金が城主として常駐した黒金領ではないであろう。
 町田城居館が瀬波郡絵図の色部館よりも低い格式で描かれいることは、居館の主が、国人領主・景勝直臣よりも低い格の侍、もしくは管理を委託された在地有力者であったことを示していると考える。
 茶臼山城の改修を景勝政権下黒金が指揮し、城主というよりも領域支配のセンター代官として黒金の家臣、あるいは管理を委託された在地有力者が駐在したと考えるのが妥当ではないだろうか。
 
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現在の矢住集落
 
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現在の手島集落
住んでいる方々のお顔がわかる地域である。
 

 参考資料として、矢住明蓮寺が所蔵する明治村時代の茶臼山城址付近見取図と、銅造如意輪観音懸仏を、明蓮寺住職日露憲雄様より撮影を許されたので掲載する。

 
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矢住明蓮寺が所蔵する明治村時代の茶臼山城址付近見取図
右が北。
 家中屋敷は城の東、民家屋敷は現矢住集落に描かれている。主要登城路は家中屋敷・矢住集落方面の口、ルート2は手島・人見ヶ鼻の口にあたると見えよう。
当時の街道は西・分岐南西に春日山城、西・分岐北西に長峰城・柿崎城、北に顕法寺城、北・分岐北東に町田城、東に安塚城に至る距離が描かれている。
 
明連寺所蔵銅造如意輪観音懸仏
明治初年、矢住熊野神社境内の神木の根元から出土した後、妙蓮寺へ納められた。
金箔の痕跡が残る。
茶臼山城との関連は伝わらないが、一廉の侍が胸(首)に懸け、戦場に臨んだ仏様であろう。
 
参考文献  遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
         頸城希望館常設展示
        伊藤正義(2014)「越後国頸城郡絵図に観る上杉権力と在地世界-村町の軍役と諸役の負担体系-」、米沢市上杉博物館『特別展上杉家伝来絵図』、川島印刷
 
資料提供 明連寺住職日露憲雄様
 
註 
  (1) 伊藤論文では、やすミ村・町田村に関し記述はないが、頸城郡四郡の町村の縄ノ高を通覧し、春日山城・直峰城の輪番警備役と合戦の際の足軽兵士役、在村が基本の街道の警備役と小荷駄隊などの軽微な陣夫役など、役負担内容との差異を詳細に分析している。


  あとがき
 
 2013年に遠藤論文を基に書いた茶臼山城の記事を、私の日常の職業フィールド(ほたる調剤薬局業務)である頸城村の山城としてあらためてリニューアルして書いた。
 御館の乱の最中の史料に登場する花ヶ崎城は、険しい山の上に削平地を設け、尾根を堀切るといった普請による中世の山城の様相を平成の私達に伝える格好の遺構であり、山の上の城跡からのダイナミック眺望は、謙信の時代とそうかわならい頸城平の様子を、味わせてくれる貴重な山城である。
 保存会の方々の心とともに後世に伝わっていって欲しい。
 
 かたや、矢住の茶臼山城は、御館の乱の落城悲話が強調されて、構造の素晴らしさまでは啓蒙されていない。しかし、茶臼山城は、遠藤公洋が(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」で分析したように、天正期の上杉権力による高度な築城術の基ずく近代的普請がされた城であり、私はそれを御館の乱以後に、景勝政権によって領域支配のセンター機能を持つ城館として改修された姿であろうと考える。 それは慶長頸城郡に描かれた古城町田城を要害とし、居館を茶臼山城と推測する佐藤の教示にあてはめて考えると矛盾はない。
 茶臼山城は、保存会こそ結成されていないが、矢住集落の方々により年数回の草刈りが行われ、歩き易い遊歩道が設置されている。遊歩道からは外れるが、遺構の破壊は僅かで、御館の乱以後と考える上杉の高度な築城術による城郭構造がそこに眠っている。
 しかし、残念ながら城郭構造の啓蒙がされていないため、茶臼山城の文化財・史跡としての価値に気付いている人は少ない。
 惜しいことである。
 城おたくまっしぐらな感のある『えいきの修学旅行』ではあるが、茶臼山城の文化財・史跡としての価値の啓蒙に役立つことができれば幸いである。
 山城に興味を持つ人に、知られた花ヶ崎城のみならず茶臼山城にも訪れていただき、異なった特徴を持つ頸城村の二つの山城を比べ歩き、その城の構造と機能の違いを感じていただくことができたなら、頸城村の二つの山城歩きが、やや高度な山城探求となることと確信する。
  2016年10月
                                                     えいき