三の丸の補足と搦手口、周辺補足します。
三の丸は現在玉城中学校
グランド
田丸城郭古図(写)によると幾郭かにわかれ、二の門から三の丸を経て本城域虎口へ、もしくは富士見門から二の丸へ入ったようだ。
信長健在なら、信雄率いる軍勢は、精強かつ華麗な織田直属軍。付けられた諸将率いる軍勢を合わせれば一方面軍ともなる大軍で、その軍団を収容するスペースに広い三の丸が必要であったであろう。
玉城町教育委員会発行旧三の丸御殿奥書院冊子掲載の田丸城郭古図(写)より引用
二の丸にもどり搦手へ
二の丸 搦手降り口
三の丸ラインの高さの帯郭に降りる
上の古図ではこの道は描かれておらず、その3で辿った富士見門から三の丸に降り、この下にまわったのかもしれない。
山麓 搦手口
二の門、本城域虎口とは違い、土遺構。
私的には、石を観た後の土で、けっこういい。
城南面 高所は二の丸
土がいい
城西面 高所は本丸
石垣が見事。
ただこちらは背面にあたる。
城東面 大手口
大手は、大和と伊勢を結ぶ初瀬街道と、熊野と伊勢を結ぶ熊野街道が落ち合い、伊勢神宮、伊勢大湊へと向かう要衝に向いている。
玉城町産業振興課作成 ふらっと玉城 より引用、上の記事説明用に加筆
田丸城から伊勢外宮まで、約8km
城下は伊勢神宮への参詣者でにぎわったことであろう。
大手入って右側に、村山龍平記念館玉城町郷土資料館がある。
村山龍平は旧田丸藩に仕えた旧士族で、朝日新聞の創始者。龍平翁ゆかりの遺品を展示し顕彰を行っている。また玉城町の郷土資料を展示してある。そのなかの刀剣、心研ぎ澄ます名刀が幾振りも収蔵展示されている。
どれも素晴らしい名刀です
田丸城、思いがけず長編になってしまいました。
熊もおらず、整備され歩きやすく、機能的な遺構を見学できます。大河ドラマ江のゆかり地でもあったようですが、史跡としての矜持を保ち、おかしな観光開発はなされていません。素のままの遺構が語りかける歴史ロマンが心に満ちます。
史跡を素のまま大切に守る玉城町。このような町で育つ子は、素の郷土を愛し、素の人を愛する人に育つことと思います。行政と町民の皆様の賢明な郷土愛に感激した田丸城でした。
最後になりましたが、親しくお声掛けいただいた山口教育長、辻村町長。ありがとうございました。
私、玉城町が大好きになりました。
参考文献 三重の山城ベスト50を歩く
玉城町教育委員会発行冊子 同産業振興課発行パンフレット