田丸城(三重県度会郡玉城町田丸字城郭) | えいきの修学旅行(令和編)

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田丸城(西から)
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田丸城は、織田信長次男信雄が、天正3年(1575)大河内城から大改修をして移り、居城とした。
 田丸城は、眼下で大和と伊勢を結ぶ初瀬街道と熊野と伊勢を結ぶ熊野街道が落ち合い、伊勢神宮、伊勢大湊へと向かう要衝を押さえている。
 南北朝の騒乱の最中、伊勢は、南朝が拠る吉野と東国を海上交通で結ぶ重要拠点で、北畠親房が延元元年(1336)玉丸山に砦を構えたとされる。室町時代は田丸氏が神領奉行として置かれた。
 信雄が松ヶ島城を築いて移った後は田丸氏が城主に返り咲いたが、蒲生氏郷に従って欧州へ移り、後、稲葉氏→木下氏・関氏→稲葉氏→津藤堂氏代官→元和五年(1619)に紀州徳川家家老久野氏と交代し、久野氏が八代明治維新まで城主となった。久野氏は城代を置き統治した。
 
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田丸城大手口
うえの写真の裏側になる
外郭は水掘
 
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かなか見事な外郭線
 
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大手口入ります
 
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60mほどで内堀の内郭線となる
外郭には町役場・郷土資料館・旧三の丸御殿奥書院が建つ。
 
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町役場
教育長、町長からお声掛け頂き、石垣の積み直しや大河ドラマ江のことなど、お話聞かせていただきました。
 
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旧三の丸御殿奥書院
久野氏は紀州藩家老職にあったため、入部は一代のうちに数度であった。
入部の際、御居間、御寝所の間として使用された。

 


 
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内堀、内郭線をこえ三の丸へ
外堀と内堀間の狭さというのも、織の特徴であろうか。
ここで図面を
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現地説明版に加筆
白丸囲い部・二の門下にいます。
その1では大手口→蓮池→北の丸北下(ここがいい)→本城域虎口と辿ります。
 
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内堀
 
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三の丸に至る二の門
現在三の丸は玉城中学校になっており、玉城中学校に至る。
 
蓮池へワープします。
 

 
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蓮池
蓮池の奥(西)は、北から南へ北の丸・本丸・二の丸が並ぶ本城域となる。
 
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蓮池の北は、内堀線の延長と思われる湿地が谷となり、回り込んでいる。
 
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 蓮池の先、富士見門が移築保存されている。この富士見門は、江戸中期の建築で、三の丸から二の丸富士見台に向かう位置にあった。
 で、この富士見門裏、北の丸の北に上がれるのですが、隈なく見るつもりの人でなければ上がらないかもしれません。あがると、北の丸北の素晴らしい堀と土塁があります。ぜひ上がってください。
 
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ここを上がります。北の丸北の素晴らしい堀と土塁があります。お見逃しなく。
 
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北の丸側は石垣造りで、北の丸からの斜面を掘って空堀とし、土塁は掻き揚げではなく残したものでしょう。
田丸城、石垣の城と認識していましたが、石垣も見事ですが、土の部分も見事です。
玉城町、よくぞ残しておいてくれました。
 
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北の丸北面石垣
 
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北の丸北 空堀と土塁 
私、かなりエキサイトしました。
 
では蓮池に戻り、本城域の東下を通り、本城域に向かいます。
 

 
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今度は、これまたいい石の城
 
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本城域虎口を守る累々
 
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本城域虎口
左は三の丸で玉城中学校
 
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三の丸 玉城中学校
その1はここまで。
 
本城域はその2で。
 
 参考文献 三重の山城ベスト50をを歩く
 玉城町教育委員会発行 田丸城(玉丸城)跡沿革抜書