具教は、大河内城合戦の後、信長次男信雄を迎え、大河内城を出て、三瀬に館を構え隠棲した。
戦国期北畠関連地点の位置関係をポイントしました。
本拠多気から、織田への抗戦のため大河内城に出、抗戦。約50日、敵を寄せ付けない籠城戦を戦いましたが、和睦。三瀬に隠棲します。天正3年、信雄は北畠家督を相続、大河内城を出、田丸城を大改修し移る。天正4年、具教は織田の意を受けた旧臣達により三瀬館にて謀殺される。芝山出羽守ら忠臣は、首を渡すまいと山を越え落ちようとするが、追手厳しく、野々口にて葬ったと伝わる。北畠忠臣は、興福寺別当東門院主となっていた具教の弟を説得、還俗。具親と名を改め、伊賀北畠具親城に拠り、再興を計ることになる。
三瀬館と茶臼山砦
三瀬館入口
館の西脇、前面に沢を堀として、東に茶臼山砦を見張り所として、構えられている。
西脇を守る沢
前面を守る沢
橋を渡ったところ(右)に、具教胴塚がある。
沢の内側 館前面
左に館、写真奥に茶臼山砦
先に茶臼山砦へ。
茶臼山砦
山頂
前面
眺望
紀勢自動車道が通る
奥地とはいえ、要衝である。
山頂後方、堀切
その奥にもう一郭
堀底
では、三瀬館へ
おおむね三段に構えられている
一段目
まだ館一段目ではないか。
二段目にあがります
ここが一段目か
北畠具教卿三瀬館跡の碑と説明版がある。
数段を経て二段目へ
二段目
どこに具教が居館があったか、どのような構造であったかは、わからない。
二段目後背切岸には石積の跡
会所の庭の景観であったか。
最上段への道
石積は、道と切岸が崩れないような意図もあったかもしれない。
具教が日常歩いた道
かも。
折れ部 石積
最上段
二段目を見る
二段目が具教政庁・会所で、最上段が居館があったか。
花におく霜も涙や染めぬらん
昔の春をしのぶ思ひに
(具教卿詠歌)
参考文献 現地説明版