北畠氏城館群(三重県津市美杉町多気) | えいきの修学旅行(令和編)

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 一橋大学で開催された、歴史史学研究会大会 中世史部会に参加させていただいて、その際、大藪海氏が「中世後期の地域支配ー幕府・守護・知行主ー」というタイトルで発表をされた。そのなかで伊勢北畠氏をモデルに、分析検討されていた。
 北畠氏は、延元元年(1336)、北畠親房が伊勢に下向以来、南朝方として北朝と抗戦。康永元年(1342)8月、田丸落とされて以降、多気に拠点を移し、南北朝の争乱終結後も戦国まで続く。伊勢守護も在るなかで、その北畠氏の存在の位置づけを、守護に属さず、本所・地域の支持を背景として幕府支配を担った知行主として、分析検討した内容。
 
それまで北畠には、遠いこともありあまり関心はなかったが、俄かに北畠が脳に宿り、どんなところなのだろう?と、衝き動かされ長躯、修学してきました。
 
難しい話は研究者に任せるとして、写真、紹介します。
              
多気北畠城館郡
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伊勢北畠氏が、本拠とした地で、居館、詰城、霧山城を構える。
 永禄12年、北畠氏は信長に攻め込まれ、多気の国司館は焼かれた。北畠氏は大河内城に籠城抗戦するが、信長次男茶箋丸(後の信勝)を養子に迎え、具教は三瀬に隠居し、信長と和睦する。が、天正4年11月、具教は、信長謀略により三瀬で横死。ここ、多気も、信長勢によって襲われ、城主政成以下討死した。(美杉ふるさと資料館年表より)
 
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北畠神社が、北畠氏居館跡
 
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北畠氏居館跡
 
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推定復元模型
美杉ふるさと資料館
左の庭が今も残り、北畠の文化を伝える。
 
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館入口石垣(展示写真)
埋め戻されているが、こういう入口があった。
武門の虎口という感じではない。
 
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 これも埋め戻されているが、館内は上段をより厳かにみせるため、長さ90mにも及ぶ石垣で区分けしていたらしい。
 
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北畠神社本殿
 
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居館跡より出土した七官青磁水鳥香合
 
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北畠顕家像
 
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礎石建物跡
 
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では、お庭へ
管領細川高国公の作とされ、享禄四年(1531)、高国が摂津大物庄で自害に臨み、婿なる北畠晴具に
 絵にうつし 石をつくりし海山を 
  後の世までも目かれずや見む
 
と、辞世を贈った。
 
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門、はいったところ
 
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橋から左がわ
 
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会所付近から
 
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もう一枚
この美しさ、管領が生死一如とした観念で想い浮かべた境地か
 
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居館背後には詰城がある
 
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登り口
ちょうど、お庭の奥になる
 
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お庭背後、造作はないが、この急崖
 
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中途 うえから
 
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詰城、見えてきます
私の足で登り口から五分(もっとかかったような)
 
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折れ上がると帯郭A郭
 
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帯郭A郭
その2へ続きます。
 
参考文献  大藪海(2013) 「中世後期の地域支配ー幕府・守護・知行主ー」(歴史史学研究会大会 中世史部会配布資料)   三重の山城ベスト50を歩く