湯山城その1(氷見市) | えいきの修学旅行(令和編)

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 湯山城は、現在森寺城と呼ばれている。氷見と能登を繋ぐ街道を扼し、その山街道を城中に取り込んでいる。その街道は柴峠で分岐し、一方は石動山へ、一方は荒山峠を経て能登へ通じている。ので、能登から越中へ進出、また越中から能登へ侵攻する際に軍勢を進めるには、関門となる要衝に築かれている。 
現地説明版に加筆 
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 街道を取り込むというより、山街道が城内を貫通している。右、能登方面には厳重な防備。左、越中方面には、各武将が率いる軍勢が駐屯し、進撃する構えとなっている。また、城内町ともとれるホンマチ区域を抱くように置いている。
その1では、能登方面を向いた搦手口を辿ります。
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 最北に搦手口の城戸、前衛の防御拠点堀切3・E、最重要防御地点Cの北端には櫓台、その前面には街道の東に5・7・8・9四重の堀切、西に3本の竪堀が食い違いながら密集し、C北端櫓台下にあたり折れ、C郭下を頭上監視されながら進む。能登方面からの攻撃に対し、厳重に備えている。能登前田勢に対する佐々の普請であろう。
 
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搦手口(能登方面から城内へ)
左に池、正面に土塁、右に堀切1と土塁
食い違わせて城戸としていた。
 
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右側 堀切1と土橋
 
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食い違わせて城内へ
 
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街道は右側に土塁を備えて通る
 
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前衛陣地となるF郭・堀切3・E郭
中央左の道は駐車場からのあがる道
駐車場はここhttp://yahoo.jp/8WvjIX付近
 
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左は寺坂屋敷
 
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街道右に堀切3とその切岸上がE郭
F郭は藪で踏み込みませんでした。
 
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郭北下切岸と堀切3
 
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E郭下を過ぎると、こんどは道の左に土塁が
 
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その土塁が切れるところが堀切5
 ここから最重要防御地点Cの北端櫓台、その前面の街道の東5・7・8・9四重の堀切、西3本の竪堀が食い違いながら密集する区域
 
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堀切5とD郭
 
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D郭うえ
 
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D郭北端には土塁を備え、街道を眼下に厳重に監視する
 
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土塁から街道をみる
 
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D郭から城内方向
最重要防御区域
 堀切8、竪堀10、堀切7が微妙に食い違っているのがわかりる。
 
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堀切7
 
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竪堀10
 
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堀切8
 
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正面にC郭北端櫓台が聳え立つ
佐々が立っているよう。
寄せ手は、4重の堀切、3本の竪堀で隘路となった街道を、櫓台に向かって進むしかない。
このようなところ、突破できまい。
 
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直下で右に折れ
佐々が睨むよう
 
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街道右には竪堀11
 
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C郭下を頭上攻撃にさらされながら進む。
いや、進めまい。
この付近は百閒馬場と呼ばれる。
 
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C郭南端を抜けると本城域B郭・A郭直下にでる
 
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その先はホンマチの中門の上区画で、なんらかの意味のある城内町区域であったと思われる。
 
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 ふり返るとC郭南端と本城域であるB郭の鞍部に、B郭搦手虎口へ入る道がつづく。C郭南端も張出し、櫓台であった可能性がある。右側B郭西面には石垣で固められていたようである痕跡がある。
 C郭、B郭、A郭はその2で。
 
 後になりましたが、城歴です。
 築城は、永正15年(1519)、能登守護畠山義総が、越後長尾為景とともに越中守護代神保慶宗を攻めた際の越中進出時と考えられる。その後能登畠山氏の重要な城であったようだが、永禄から天正にかけては長沢筑前守が城主であったと伝わる。元亀三年刻名のある長沢筑前守寄進石仏が、上石寺境内に残る。
 元亀二年(1571)「…内々守山・湯山可擬落処…」(上越市史1037)、天正4年(1576)「…湯山も今明之内ニ可落居候間、…」(上越市史1307)には、湯山城には反上杉勢力が拠っていたようで、上杉謙信によって攻略が図られ、天正4年には落城、謙信配下の河田主膳(河田長親の一族と思われる)が城将となり、中村山城とともに氷見地域を制圧し能登へ侵攻する拠点となった。
 上杉氏は天正5年には七尾城を落とし、能登を征服するが、翌天正6年3月、謙信は急死する。越中には織田勢力が浸透する。湯山城は、守山城の神保氏張と長連龍によって攻略される。この攻城戦の模様は、長家家譜に生々しく記されている。織田制圧後は佐々成政の支城として整備された。天正12年8月、佐々が加賀能登の前田領に侵攻、9月末森城撤退後は、能越国境に近い湯山城は佐々方の重防衛拠点として機能した。その頃、城生城主斎藤次郎右衛門信利が城将であったという伝承がある。天正13年8月、佐々の秀吉への降伏により開城、前田に明け渡されたであろうが、前田は湯山城を使用せず、破却したようである。
 
参考文献 氷見市教育委員会発行の氷見の山城