元屋敷城(参考文献 朝日町の山城では泊城)は、境の要害・宮崎城(電波塔付近)の海岸沿いを固める支城として機能したと思われる。
現在もJR北陸本線、県道60号線が裾を、直下を国道8号線が通る要衝に築かれている。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/12/fd/j/o0314020914510047408.jpg?caw=800)
橋のやや上流に落ちてくる竪堀様の谷は引火矢谷と呼ばれ、天正12年、佐々成政が宮崎城に入れ備えた益木・三輪の両将と、宮崎城奪還を目指し攻め登る上杉景勝勢とにより弓鉄砲にて大激戦せる地という。(境村史泊町商工案内)
また、朝日町の山城では、元屋敷集落の成立をこう記している。天正時代、佐々と上杉のせめぎ合いから、越中ー越後国境は風雲急を告げてた。それを伝え聞いた諸国の浪人たちがいつの間にかこの地に集まり、元屋敷集落を構えたと「金森古文書」の記事が伝説的に信じられる。と。
牢人達が背後に荒城のある元屋敷に屯して無頼を働いていたら…。
私にとっては、ご縁もあり、そんな情景が脳裏にありありと浮かぶ歴史ロマン湧き立つお城です。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/8b/08/j/o0314020914510047414.jpg?caw=800)
元屋敷城へは、宮崎城E郭三の郭北陸宮陵墓とされる付近背後の切岸下の尾根から行くことができますが、その切岸はとても降りることができないので、上の山への遊歩道脇からD郭 ひろしき・三の丸下の帯郭様の藪の平地から踏み込みました(季節によっては突入できないかも)
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/78/c8/j/o0314020914510047418.jpg?caw=800)
この尾根伝いに降りていきます。
ここからの歩行はそれほど困難ではありません。元屋敷城二の丸まで私の足で25分。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2c/d5/j/o0314020914510047422.jpg?caw=800)
途中、宮崎城F郭を経由します
英字郭、○数字地点は、佐伯哲也 越中中世城郭図面集に合致します。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/55/03/j/o0314020914510047425.jpg?caw=800)
堀切
遮断されてはいない
堀切で通路狭め、宮崎城ー元屋敷城間の関門城戸をおいていたのであろうか
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/22/f9/j/o0314020914510047428.jpg?caw=800)
元屋敷城側(下)から見上げる
尾根に導かれるままに降りていくと
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/ac/52/j/o0314020914510047434.jpg?caw=800)
鞍部に、穴のあいた地点がある
穴は木の跡か、通路を狭める遺構かはわからりません。
ここから元屋敷城への登りとなります。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/13/40/j/o0314020914510047438.jpg?caw=800)
郭D 櫓台⑤が立ちはだかり、道は黄線のように頭上から監視されながらまわり込み入ります
郭Dは朝日町の山城では番所郭としている。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/46/50/j/o0314020914510047445.jpg?caw=800)
線なし
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/e6/df/j/o0314020914510047450.jpg?caw=800)
まわりこんで郭Dに上がる辺りに、佐伯先生は竪堀とする虎口にも竪堀にもみえる遺構がある
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/a5/ec/j/o0314020914510047453.jpg?caw=800)
郭D番所曲輪 奥、一段高く櫓台⑤がある
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/70/c7/j/o0336042414510047460.jpg?caw=800)
縄張図 朝日町の山城より引用
宮崎城から左図右から番所曲輪を経て来ました
○二の丸を北にまわり嘴状の土橋から角馬出を経て本丸へ。
○郭A本丸はそれほど高くはないが幅広の土塁を備える。南の虎口は平虎口だが、主郭側に堀切、南曲輪側に切岸と土橋で狭められた馬出状の郭C三の丸、その先に南曲輪を配し、戦闘郭としている。
○元屋敷集落からの道はこちらに入ったようで、衝立のように土塁を立て、遮っている。
左図で搦手口としている北(上)からのルートは、佐伯先生は触れていません。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/ac/9a/j/o0314020914510047465.jpg?caw=800)
細長い土橋状の尾根を登ると二の丸
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/27/5f/j/o0314020914510047471.jpg?caw=800)
二の丸
郭A 東面下ー北面下を取り巻きます
こちらからだといまいちよくわかりませんが、
南の櫓口から見ると
![イメージ 30](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/bb/19/j/o0314020914510047473.jpg?caw=800)
このようになかなかいい郭です
二の丸東部
![イメージ 32](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c4/70/j/o0314020914510047483.jpg?caw=800)
二の丸 北部
![イメージ 33](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/e0/ea/j/o0314020914510047491.jpg?caw=800)
北に、佐伯先生は竪堀、朝日町の山城は搦め手口、とする痕跡があります。
![イメージ 34](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/d6/5a/j/o0314020914510047503.jpg?caw=800)
二の丸から郭A 本丸・武者溜りへは、嘴状の土橋から角馬出⑥を経て入ります
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/a8/93/j/o0314020914510047514.jpg?caw=800)
郭A内
北部は一段低くなっています
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/ac/0d/j/o0314020914510047521.jpg?caw=800)
郭A
高地に泊城本丸跡の標柱がある
右手前が北部の低地
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/1b/75/j/o0314020914510047526.jpg?caw=800)
泊城本丸跡標柱
朝日町の山城を執筆された方々が設置したのであろうか。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/1f/2f/j/o0314020914510047536.jpg?caw=800)
本丸東土塁
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/f5/8d/j/o0314020914510047541.jpg?caw=800)
本丸南土塁
こちらが元屋敷集落に向いた土塁のため造りが頑丈堅固に見える
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/fc/ab/j/o0314020914510047548.jpg?caw=800)
本丸南の堀
左が郭A 本丸 右が馬出状の郭C 三の丸
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/99/e6/j/o0314020914510047553.jpg?caw=800)
本丸西の堀
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/48/b0/j/o0314020914510047559.jpg?caw=800)
郭A 本丸と、郭C 三の丸を繋ぐ虎口③
緑の葉のあつまっているあたり
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c0/c1/j/o0314020914510047566.jpg?caw=800)
本丸虎口③を南から守る馬出状の郭C 三の丸
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/bd/fd/j/o0314020914510047572.jpg?caw=800)
郭C 三の丸西は谷に落ち込む崖
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/7f/83/j/o0314020914510047575.jpg?caw=800)
郭C 三の丸南は切岸で切り立てられ、土橋(写真右端)で南曲輪に繋がる
郭C 三の丸は、堅固な普請である
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/33/7f/j/o0314020914510047581.jpg?caw=800)
南曲輪
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/dc/47/j/o0314020914510047587.jpg?caw=800)
南面に土塁がある
![イメージ 28](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/52/ef/j/o0314020914510047593.jpg?caw=800)
尾根を遮るようにも、土塁が衝立つ
![イメージ 29](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/7e/8e/j/o0314020914510047600.jpg?caw=800)
元屋敷集落からあがってくる尾根
大きな石が据えてある
これも進路を遮る意図か
(ころがってるだけかもしれない)
![イメージ 31](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/4b/68/j/o0314020914510047609.jpg?caw=800)
石の辺りから見上げる
土塁で見通せないようになっている
元屋敷城、遺構は旧い形態ではなく、宮崎城方面、元屋敷集落方面にぞれぞれ考えられた普請をして備えている。朝日町の山城では、遺構には越後系の竪堀と織豊系の虎口の混在が考えられるとしているが、佐伯先生は、織豊系城郭の要素が見られないとし、16世紀後半上杉氏による築城を推定している。
謙信後期もしくは景勝期における、上杉氏による普請が基になっているであろう。
参考文献 佐伯哲也 越中中世城郭図面集
竹内俊一 朝日町の山城
訪城にあたり、朝日町図書館、朝日町役場の方々に御親切なアドバイスをいただきました。