本記事は2023.3大幅に修正しました。
写真、2013~2023年の間、かつ春夏秋冬かつ各サイズ混ざります。
文、旧記事、更新記事混ざります。
時間が割けなく、整合できません。ご許容下さい。
笹川集落からみる宮崎城
永禄12年、上杉氏が椎名氏討伐へと動いて後は、上杉氏の本国越後と越中を繋ぐ城として重視され、境の要害と呼ばれた。
天正10年6月5日に、3日に魚津城を落とした柴田勝家勢に攻め込まれ退散する。しかし、本能寺の変による情勢の転換により、上杉勢が魚津城まで回復するので、宮崎城も上杉が再掌握したものと思われる。同11年2月には、上杉の岩船藤左衛門が構を拵え在所していたが、佐々に追い払われ「堺之荒城取立、普請申付、丈夫人数入置」(上2793)とあることから、佐々の軍勢が入り、佐々方の城となった。 しかし、同12年10月には上杉方が奪還(上2990)、同14年10月から6月の間と考えられる秀吉による「信州群割」とあわせた「越中国切」の実現まで[ii]、越中における上杉氏の拠点となった。
また、境には謙信時代にさかのぼる料所が設置されていた。先に庄田が任命されていた代官に、天正10年7月29日、岩船藤左衛門入道が補任されている(上2494)。
岩船に与えられた条書
天正十年七月廿九日 岩船一策斎宛直江兼続条書(上2495)
内覧
一、境御料所近年松倉ニ付分、何茂謙信様如御代、可為御料所之由、仰出之事、
一、当年土貢之納所、何方に而茂可然所見繕、御蔵可相達之事、
一、大関・広井・丸山・庄田足軽共之為台飯分被出置知行茂、被入見地、其上四人衆手前之人数次第に御台飯可相計事、
付、於何事茂、如前々之少茂無違背可被申付事、
直江
七月廿九日 兼続
岩船一策斎
参
境御料所は、近年は松倉(城)に付けていたが、謙信の時代の如く料所とするとしてあり、謙信の時代には、境に料所があった。高岡先生は、境料所の設定、庄田の代官任命時期を、太田上・下郷と同時期、天正元年と推定している。
土貢の納所として、しかるべき所に御蔵が設けられていた。
境要害には、岩船の他に、大関、広居、丸山、庄田の諸将(4人衆)が在番しており、彼らが率いる足軽・手勢の台飯分の知行が存在していたことがわかる。
同11年2月3日岩船丹波入道宛上杉景勝朱印状(上2648)では、「境関所、如前々上下三人可勤其役事、付、関落之科可准先蹤事、」とあり、境城と境関所一体となって、上杉氏支配化の越中・越後国境地帯の警備にあたっていたこと、両国を往来する通行人の取締りが、境関所の主要な任務であったことが指摘されている。
[i] 高岡徹(2016)「戦国期における上杉氏の越中在番体制とその展開」、『戦国期越中の攻防』、p.116岩田書院、初出2000
[ii] 竹井英文(2014)「「越中国切」をめぐる政治過程」、『信濃』、第66巻12号通巻779号pp896-8
上杉氏にとっては重要な城だが、富山にとっては黒歴史のようで、キャプション等は上杉スルー気味です。
駐車場
宮崎城は、電波状況と見通しが絶好のため、電波塔と旧日本陸軍に破壊・活用されます。
山城の雰囲気は壊されていますが、越後ー越中を結ぶ絶好の要地であることとがその眺望から感じることができます。
宮崎城へ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230304/22/mei881246/d5/0f/j/o0640048015251056394.jpg?caw=800)
右手に堀切
堀切
車止めの向こうが曲輪
この付近が鷺野曲輪虎口とされ、食い違い土橋が推定される
トイレの裏に堀切
車止めの奥 曲輪
日本陸軍により削平され、公園となっている。
宮崎城配置図(現地設置説明版より引用)
旧陸軍による削平の西斜面に佐伯先生は11条の畝状空堀群をとっている(佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房、p.2)。半信半疑だったが、ほんとにあった(2023.2確認・撮影)。
この急斜面に普請した兵達、調査した佐伯先生に畏敬の念
陸軍が作った土橋
本丸南下
B郭は富山県史蹟名勝天然記念物調査報告書では外郭としている
日本陸軍も通信施設、対空機関銃砲座を設置していた
八幡社
朝日町の城では「そのあたりにそれまであったかのように、遺構も出土品もないのに、観光用の八幡宮の社殿が建っている」と警告をはっしている
本丸上
越中方面の眺望
絶景
写真映りは不明瞭ですが、能登まで手が届くように見える
宮崎城から越中と越後を見比べると、かたや沃野が広がる越中、かたや越後へは天険親不知が阻む。
覇気は越中へ向かうであろう。
越後方面の眺望
この越中、越後間の海沿いの回廊のような平地部、宮崎ー境ー玉ノ木ー市振は、海賊する椎名牢人に荒らされた。ここを海賊するということは、越後から越中に首を出す越軍の首を脅かすような地利になる。
そっちから宮崎城
ずーむ
「へい」はどう見えたであろうか
越後国境
まさか見えるとは思っていませんでしたが、この日は驚くことに、米山、旗持城が目視できました。
元亀四年五月十四日 河隅三郎左衛門尉・庄田隼人佑宛謙信書状(上越市史1158)から、長いので分けながら紹介します。 高岡徹(2016)「上杉謙信による両越国境地帯の海岸防衛」、『戦国期越中の攻防』、岩田書院、初出1985を参照。
○椎名牢人が海賊になり村々に放火し荒らしまわるのに対し、境、市振、玉ノ木、市振の者共に槍と小旗を用意させ、船が海岸に着いたところを集まって攻めるとても効果がある。と、散り散りに逃げていたのを集まってこう攻めよ指示している。
「…かいぞく(海賊)ハしいならう人(椎名牢人)いたすよし申□、さやうニも□□かいぞくのもの共ぶしゆ(無衆)のよし申候、きやうこう(向後)ハ、ふね見立候ハヽ、さかい(境)・いちぶり(市振)・たもの木(玉ノ木)・□やざき(宮崎)きんへんのもの共ニ、やりよふい(槍用意)候て、こはた(小旗)をもさうたうニ申しつけ、そのきんへんのむら一ツに□(あ)つまり、ふねつけ候ところへおりかゝ!り候ハヽ、とてもすまじく候、てき一人も見ゑ候へハ、ちり〱ににげ候間、よき事と心へ、むら〱へはたらき、やきまわり(焼廻)候、かたかたきやうこうハ、ぢげ人(地下)も身だめニ候間、やり・こはたよふい(用意)申べきよし、申つけべく候、…」
○境要害の城将、河隅三郎左衛門尉・庄田隼人に、鉄砲15丁を用意し、市振、玉ノ木、境、宮崎の者を組織してあたるよう指示している。また、実城、二の郭、三の郭に塀を普請させている。村・要害が手浅に見えないように竹木を切らないよう指示している。越中に居る河田対馬守に手紙を届けるよう(越後ー越中の中継)指示している。
「…しやう田(庄田)、てつはう(鉄砲)いかん共よふい申へく候、ごぶん(吾分)身だめ、又ハ身のかたへのほうこうニ候間、いかん共てつはう十五ちやうよふい申へく候、ここもとより、そのほかをばこすべく候、きやうこうハ、かならすかならすいちぶり・たもの木・さかい・ミやざきのもの一ツニなり、はしりめぐらせへく候て、けんごにみぢやうハ申におよばず、二のくるは・三のくるままて、へいに申つけへく候、又ぢんしゆニさかい・ミやざきの竹木きらせまじく候、きり候へハ、むらようがい(村要害)なを〱てあさ(手浅)に見なすものニ候、孫二郎・やまとにも、このだん申せいこうさせへく候、又ぶたう(無道)なきやうニ申つけさせへく候、謹言、追而、河田対馬守かたへ文をこし、ぢき(直)に□(と)どけへく候、以上、」
北西下にC郭 二の丸
その下に三の丸
この奥に当時のものと思われる石類が現存している
石塁
内に積んでいる
外面は土で、そもそも塁の意味(用途)がわからない
これが謙信が普請を命じた「へい」?
越中側なんだよね。
お父さん、なにしてんの
北東に下ってった先に大堀切
橋の西
註他の参考文献
竹内俊一(発行年奥付記載なし)『 越国境朝日町の山城』、菅野印刷興業株式会社
以下1月19日(2013年の)追補します。
補1 Googlemapに加筆
境は境川の西岸すぐで、宮崎はこの平野部の西端地区
補2 境川西岸
境関所、背後の山上に境端城があった。
朝日町の山城によると、天正12年10月には「境川左岸には山際より海まで三十餘間(約70m)の石垣を築き出し、門を立て櫓を上げて海辺まで差塞いていた」(越後治乱記)
境端城は、竪堀二本と曲輪が認められる砦程度の規模。
補3
宮崎城の南麓、笹川地区
朝日町の山城P32より転載 美の輪、手取田に桃線
朝日町の山城より 軍記物lをもとに書かれたようですが。
天正12年10月、景勝が佐々に奪われた宮崎城奪還を目指す合戦において、佐々勢は宮崎城将益木中務丞を本丸に残し、丹羽(美の輪)権平は800人の手勢を率いて河田勢に打って出た。が、河田長親(天正9年に亡くなっているはずだが)に馬より突き落とされ、字「手取田」で生け捕られたという。